河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎


講義余話

「倭」からの脱却-中央集権国家と国号(二)

 

そして、「日本」へ

大和言葉に漢字を当てるという作業は、当然のことだが、漢字文化圏の人間でなければできない。そこで、“この列島”の呼称としては、中国や朝鮮半島からの視線として、「倭」という漢字が用いられた、と考えねばならない。しかし、この列島の人々も、いわゆる“渡来人”たちの存在もあって、徐々に漢字文化圏へと参加するようになった。

つまり、漢字が分かるようになれば、“よろしくない”ものよりも、“よろしい”ものを希望するのは、当然のなりゆきであった。「倭」に換えて別の漢字(たとえば「和」)を用いる事象は、そういうこの列島の人々の心の機微を表している。

さらに言えば、国号に、“偉大な”という意味の「大」を添えることも、国家の始発期にはよく見られることではあった。たとえば「大倭」や「大和」という表記は、列島各地の既存勢力への示威として必要なことだったに違いない。

しかし、ある時、対外的には、「日本」を国号とした。国家規模の次元において、 “よりいいもの”を希求した結果が、「日本」という国号であったということになる。その時期は、この列島に強力な“中央集権国家”が確立した時期、すなわち“天武・持統”朝という見方は動かない。そして、その国号の、正式な対外発信は、少なくとも養老四(720)年の『日本書紀』ということになるであろう。

 

古代日本の“中央集権国家”の国号としての「日本」は、当初国内では「ニッポン」や「ニホン」とは、特に言わなかったと思われる。これは、“列島”に強力な統一国家を作った政権が、国際化時代にふさわしい国名として考えた対外用の“表記”であった。おそらく“表音”としては、そのまま「ヤマト」だったのではないか。

国内では「ヤマト」であったが、国外では、そのまま漢字音で発音されたであろう。漢語の「日本」である以上、その漢字音は、「ニチポン」か、もしくは「ジツポン」のようなものであったろう。これらの発音から、やがて「ニッポン」や「ジッポン」(この発音がやがて「ジパング」などに展開していった)などの表音が生まれてきたことは言うまでもない。

 

さて、表記としての「日本」なのだが、「倭」や「和」「大和」などの「ヤマト」からすれば、あまりにも唐突に出現したかの印象がある。しかし、実は、この「日本」という表記ほど、いわゆる「大和朝廷」(大和王朝)のアイデンティティーを体現している言葉はない。

「日本」とは、「日の本」と考えていい。ということは、「日」は“太陽”であり、「日の本」とは、文字どおり、“太陽が昇る所”ということになる。

かつて、大和朝廷の前身である勢力が、九州の「日向、高千穂」にいたことは間違いのないことであろう。それが、やがて「大和」にやってきたのである。そういう意味では、“この列島”に限定するならば、彼らの“ふるさと”は、「日向、高千穂」ということになる。「大和朝廷」の本質に関わる何かが、この土地にはあるとしなければならない。その秘密が「日向」という言葉に隠されているのではないか。

 

太陽信仰と大和朝廷

「日向」について、『日本書紀』には、次のように記されている。

是國也直向於日出方。故號其國曰日向也。 (日本書紀 巻第七)
(是ノ國ハ直グニ日ノ出ヅル方ニ向ケリ。故ニ其ノ國ヲ號シテ日向ト曰フナリ。)

『日本書紀』がわざわざこう記すのは、「日向国」(現宮崎県)の地理的特徴が、太陽が正面から昇ってくる地形にあるからである。むろん、この場合の“正面”とは、“東”ということにほかならない。さらに言えば、その昇ってくるところが“海上”であるところも注目されよう。

やがて、「大和朝廷」を形成する集団は、東方海上から太陽が昇る地形の「日向」を離れ、山間の地の「大和」を目指したのだが、その後大和の地を拠点としつつも、彼らは、引き続き、東方海上から太陽が昇る風景を求め続けたのである。それが、皇祖神「アマテラス」を「伊勢」の地に祀る、ということではなかったかと思われる。

 

「伊勢」は、古来太陽信仰の土地であった。伊勢の海岸、二見が浦の“二見興玉神社”の「夏至祭」は、沖の夫婦岩から昇る「日の大神」を拝する神事と言っていいが、このように、東の洋上に太陽が昇る光景こそ、ヤマト王朝の、遥か昔に遡る「日向」の国での確かな記憶の覚醒であったに違いない。

その二見興玉神社での太陽信仰の痕跡を強く伺わせるものとして、当社の“輪注連縄(わしめなわ)”というものがある。藁で作った円形の簡易なものだが、おそらく太陽をモチーフにしたものであろう。つまり、ごくシンプルな“日章”のデザインであって、そういうものとしては、ごく初期の段階に属するものではないかと思われる。

 

 

おそらく、大和朝廷が“中央集権国家”として確立する過程において、列島各地に存在する“太陽神”をも強力に中央集権化する必要があったのであろう。その役割を強力に担ったのが、「天照大神」を祀る「伊勢神宮」だったと言えるのではないか。

そして、“太陽”は、「日の神・アマテラス」となり、その直系として天皇は、「日の御子」とならねばならなかった。たとえば、平城京遷都(710)直後に成立したと思われる『萬葉集』「巻一」には、次の表現が繰り返し登場する。

やすみしし 我が大王 高照らす 日の御子

このフレーズこそ、大和朝廷の「大王」(おほきみ)が、正当な「日の御子」であることを宣言するプロパガンダでもあったろう。なお、『古事記』(712年)にも多用される「高光る日の御子」というフレーズも、同趣旨の表現と言っていい。

 

このように、「倭」からの脱却には、列島を統一した「大和王朝」が、太陽信仰の大元の国であることの宣言が必要であった。そして、その国号を「日本」と表記することで、旧「倭国」が、大陸や朝鮮半島から見て東方の「日の本」に位置する堂々たる正統国家であるという、国際社会における明確な“アピール”と“発信”とに成功したと言うべきであろう。

 

ちなみに、当時の国際社会の大国である「大唐帝国」が、「日本」を国号として認めたことが伺われる最初の事例は、現存資料に限れば、遣唐の留学生、井真成(いのまなり)の墓誌(734年没)である。それには、「姓井字眞成國號日本」と刻まれており、八世紀の中ごろには、すでに「日本」が“国号”として認知されていたことがわかるのである。