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王朝文学文化研究会 


文学文化舎


講義余話

行平の須磨―須磨籠居の真相

 

『伊勢物語』「二条后物語」

『伊勢物語』(「六十六段」・「八十七段」)を読む限りでは、行平業平兄弟の絆は堅かったと言っていい。そして、両章段に流れる共通の心情として、「世」を「憂し」と観ずる姿勢であった。この二人の兄弟に、当時果たして何があったのか―。事の真相は、原点に戻るようだが、文徳天皇時代の行平の須磨籠居の理由に潜んでいるように思われる。

行平の当該歌の詞書にある「田村の御時にことに当たりて」だが、この「ことに当たる」が、注釈の問題として、直接には行平自身のことではないとすると、あるいは、それは、弟の業平のことと考えることができるのではないか。その「田村の御時」に“業平”をめぐるなんらかの重大な事件が起こったとするならば、それは、“例のあの一件”以外にはあり得ないとするのがこの稿の筆者の推理なのである。

 

在原業平の生涯において起こった「田村の御時(文徳天皇時代)」の重大な一件とは、今日に至るまで、いまだその真偽の決着がついていない、いわゆる「二条后物語」、すなわち業平と二条后高子との“恋”の問題であると言わなければならない。

 

この「二条后物語」が世に現れたのは『伊勢物語』においてであった。正確に言うならば、『伊勢物語』の「二段」を受けた後の、「三段」「四段」「五段」「六段」の連続する四章段に載せる話であった。この四章段のうち、特に、最初と最後の「三段」「六段」は、「二条后」がまだ入内前の時代であったと言い、さらに、中核を担う「四段」「五段」の主人公のうたが『古今集』に載せる「在原業平」詠であることにより、ヒロインは、入内前の藤原高子、そして、ヒーローは、在原業平であることは動かない。

さらに、この四章段の時代設定については、すでに拙稿で詳細に分析しているので繰り返さないが、その“時”が、藤原明子の「女御」の時代、すなわち“文徳天皇時代”であることも動かない。時に、業平26歳~34歳、高子8歳~16歳という年齢幅の時代であった。「四段」「五段」に載せる当該の『古今集』業平詠の詞書からは、いっさい藤原高子の存在を伺うことができなかったが、それが、『伊勢物語』という物語世界の段階において、まさに、秘匿された“真相の暴露”というかたちで、その恋の相手が世に明らかになったのだ。むろん、当事者たちは、すでにとっくにこの世を去ってはいる。

 

嘉祥三年(850)、文徳天皇の即位とともに立太子となった惟仁親王(後の清和天皇)には、いずれ、元服と同時に、藤原北家出身の后の入内がなされなければならなかった。その時の持駒として、当時の氏の長者藤原良房は、基経、国経兄弟とともに、その妹の高子を養女にもしていたのであった。そのような重要な后候補の姫君と、藤原氏以外の氏族の男が恋愛関係を持つことは、とうてい許されることではなく、それに「通ふ」ということはまさに“犯罪的行為”と言ってもよかったのだ。

事の発覚した後には、当然のことながら、業平にはなんらかの“ペナルティー”が与えられたのではあるまいか。

『日本三代実録』の記事

実は、『日本三代実録』は、貞観四年(862)三月七日のくだりに、業平に関する次のような位階の昇進記事を記している。

正六位上在原朝臣業平、従五位上

これは、「正六位上」であった業平が、貞観四年(862)三月七日、「従五位上」に昇進したと読むしかないが、しかし、本来ならこの箇所は、「従五位下在原朝臣業平、従五位上」でなければならない。なぜなら、業平は、嘉祥二年(849)正月七日に、「無位」から「従五位下」に叙せられていることが、『續日本後紀』「巻十九」により明白であるからである。

このことについて、『新訂増補国史大系 日本三代実録』は、「正六位上」に注符を付し、そのうえで頭注に次のような注記文を添えている。

正六位上、續後紀嘉祥二年正月紀業平叙従五位下、或云初叙五位後貶六位也、今暫仍舊

この注記文は、『續日本後紀』の記事を確認しつつ、『日本三代実録』にある「正六位上」について、「初叙五位後貶六位也」と記したように、嘉祥二年正月七日の「初叙」で「従五位下」となった業平が、後に「六位」に「貶」された可能性があることを示唆したものと言えよう。もしも、業平に対して「後貶六位」というペナルティーが科せられたとすれば、その時期は、嘉祥二年(849)以降貞観四年(862)までということになる。しかし、常識的には、清和天皇時代(貞観四年(862)三月七日)に、赦された上で二段階の昇進を果たしたことになるので、降格の時期は、前代の文徳天皇時代ということになろう。

このことは、むろん、さまざまな考察が可能となるところではあるが、業平の位階の降格処分が明確には否定できない以上、その原因を、文徳天皇時代の“高子との恋”とすることができるのではないか。そして、業平と絆の深かった兄の行平もまた、そのことに自ら“連座”することとした、と推理するのである。その謹慎の土地こそ、業平所領の「須磨」であった。

 

このように、在原行平にまつわる“須磨伝承”は、元をただせば、激しい「いろごのみ」を実行した在原業平の物語から発した事件ではなかったかと推測せざるを得ない。

ちなみに、もう一方の当事者である藤原高子であるが、こちらもまた、厳しいペナルティーを科せられたと推理することが可能である。これについては、別稿を用意したい。