河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



講義余話

伊勢紀行(二)

 

伊勢うどん

王朝文学文化研究会の文学散歩としては、むろん、内宮(皇大神宮)へ参らねばならない。早朝、外宮を参拝した後、すぐに内宮へと向かった。

あいにくの小雨ではあったが、内宮境内は混雑している。

やはり、外宮とは人出が違いますねえ

と、誰かが言う。早朝の時間帯が外宮で、その後が内宮だから、参拝客が増えてくるのも当然だろうが、やはり、外宮の参拝を省略する人もいるのではないかと思われる。

 

内宮に参拝し、神楽も鑑賞して、その後の昼食は、内宮すぐ横の「おはらい町」か「おかげ横丁」で取ることになった。そのため自由行動になったが、それでも三、四人ほどの仲間が近くにいて、一緒に入れる店を探すことにした。

何が名物でしょう?

と言う声に対して、誰かが、

手こね寿司か、伊勢うどんでしょう

と答える。

どうしましょう

ということになったが、

手こね寿司は志摩地方の海だが、神宮に直接関わるものなら、やはり、伊勢うどん

というところに落ち着いて、「伊勢うどん」の看板が大きく出ている店を探すことにした。

当日は月曜ではあったが、夏休みの八月の下旬ということもあって、内宮境内もそうだったように、昼時のおはらい町は、ずいぶん観光客(参拝客)で混雑していた。ある店の前で、家族客が偶然出てきたところに、一瞬のタイミングで、なんとか入ることができた。

 

うどんを待つあいだ、「伊勢うどん」が「神宮」に関わるとはどういうことか、という話になった。伊勢うどんは、一目見てわかることだが、ほとんど汁がない。つまり、普通のうどんのように、たっぷりの汁の海を麺が泳いでいないのである。太く軟らかい麺が、器の底に、とぐろを巻くように横たわっていて、その下に、黒々とした濃いだし醤油が少量沈んでいる。麺は温かいが、熱いというほどではない。

関西関東に限らず、いわゆる熱々のうどん、といったイメージとは程遠いものがあるが、それは、お昼時に殺到する客を効率よくさばくためという説がある。たしかに、濃い出汁が少量で、麺が軟らかく太いのは、早く食べ終わるためには好都合かも知れない。誰が考え始めたのかはわからないが、これなら店員が少々乱暴に扱っても、汁もこぼれることはない。

おかげ横丁入口

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おかげ横丁入口

 

伊勢参りは、古くから盛んに行われたが、江戸期、特に爆発的に流行した。なにせ祭神が皇祖神の天照大御神であるから、神としての威力は申し分がない。それに加えて、幕府が伊勢詣への旅の自由を認めたこともあって、全国各地からの伊勢詣が流行した。なかでも、最大の人口を抱える江戸からは大量の参拝客が伊勢に向かったことであろう。

 

江戸期の戯作作者である十返舎一九が、弥次喜多道中で有名な『東海道中膝栗毛』を著したのはよく知られている。これは、十九世紀初頭(1802年から1814年にかけて出版)のことであった。一九の滑稽本の代表作と言えるが、見方を変えれば、江戸から伊勢までの道中記(最終的には京・大坂まで)で、つまりは、弥次喜多珍道中の形を取った新手の旅行ガイド本と言うこともできる。

そして、もともと伊勢神宮には、参拝にあたっての広告宣伝と当地でのガイドと接待を兼ねた「御師(おんし)」という導師的な世話役が存在した。この御師が全国に飛んで伊勢のコマーシャルにも励んだわけで、その威力もあって、参拝客が殺到したのである。昼時の混雑など、今日の比ではなかったろう。

 

私どもも、当然のことながら、またたくまにうどんをたいらげてしまった。午後は、「伊雑宮(いざわのみや・いぞうのみや)」に向かい、その足ですぐに、名古屋まで帰らねばならない。

 

伊雑宮

近鉄の宇治山田駅から、鳥羽を経過して志摩を目指すことおよそ40分で、近鉄志摩線の上之郷駅に到着する。そこから終点の英虞湾賢島までは、20分くらいである。

伊雑宮は、この上之郷駅のすぐそばにあるのだが、むしろ、伊雑浦(いぞうのうら)に近いところにあると言ったほうがいいかも知れない。

伊雑浦とは、志摩半島を流れる小さな川が海岸に流れ込む入り江で、形状的には湖のようなところである。淡水と海水が混じり合うところだから、青ノリや鰻などが名物なのであろう。この伊雑浦をさらに海側に抜けると、蠣や真珠貝で有名な的矢湾(まとやわん)になる。ということは、伊雑浦も的矢湾の一部と言ってもいい。

「いぞうのうら」という呼称は、当然のことながら、「伊雑宮」を「イゾーノミヤ」と読む場合と同じものがあるであろう。「伊雑宮」とは、本来は、「伊雑浦の宮」といったような趣なのではあるまいか。

 

伊雑宮は、実に小振りの神社である。しかし、その佇まいには、一種上質の気品が漂っている奥深さがあるが、実は、ここは、れっきとした皇大神宮(内宮)の別宮なのである。しかも、その祭神は「天照大御神」である。となれば、内宮境内にある「荒祭宮(祭神は天照大御神)」との共通性といったようなことも浮上してくるかもしれないが、しかし、荒祭宮と同じように「天照大御神」の「荒御霊」(あらみたま)を祀るというようなところでもなさそうである。

内宮で発行している簡便なパンフレットには、その創立を垂仁天皇の御代としているから、皇大神宮(内宮)の歴史に重なることになるが、「皇大神宮ご鎮座の後に御贄地を定めるために」造営されたと書かれている。とすれば、皇大神宮の神饌を供するための土地だったのかも知れない。

つまりは、「伊雑浦」の海産物が注目されたのではないか。いや、この土地は、海産物だけではなく、「伊雑浦」に注ぐいくつかの川筋によって、安定した稲作農耕が営まれる土地でもあったと思われる。

伊雑宮の社殿

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊雑宮の社殿。建築様式は内宮と同じ。

 

かなり昔のことになるが、故石田穣二先生と神宮を訪問したとき、先生が、ふと思い出されたように、

この先の、イゾーノミヤがおもしろいところだ

とおっしゃったことがあった。その時の会話は、なぜかそれだけで終わり、伊雑宮の何がおもしろいのかを聞き漏らしたのだが、おそらく、その宮で毎年六月に行われる「御田植祭の神事(国指定の重要無形文化財)」を念頭に置いておられたものかと想像するが、むろん、今となっては確かめるすべもない。

ともかく、この「御田植祭」からもわかるように、この伊雑浦周辺の土地は、古代より、稲作農耕が安定して営まれていたのである。周辺背後に、そういう豊饒の土地を持つことが、皇大神宮-天照大御神を祀るにあたっては、いかにも重要な要件であったに違いない。

 

瀧原宮

ところで、皇大神宮の境外の別宮は、この「伊雑宮」の他に、もう一つ存在している。紀勢本線を和歌山に向かって進んでいくと、度会郡大紀町に滝原という地区があり、そこに「瀧原宮」が鎮座している。祭神は、伊雑宮同様、天照大御神である。

ここは、神宮近くを流れる宮川の遥か上流で、山深いところである。宮の造営については、これも神宮発行のパンフレットによれば、伊雑宮と同様、垂仁天皇の御代ということになるが、どうも、その起源は皇大神宮よりも古いものかも分からない。というのも、パンフレットには次のように書かれているからである。

第11代垂仁天皇の皇女倭姫命が御杖代として天照大神を奉戴し、ご鎮座の地を求めて、宮川下流の磯宮をお発ちになりこの地においでになると、「大河之瀧原之国」という麗しい土地があり、この地に宮殿を造立されたのが起源とされます。

これによると、もともと倭姫が天照大御神の鎮座にふさわしい土地を探していて、最初にこの土地に宮を建てたということであるから、今ある皇大神宮(内宮)の原点ということになるであろう。つまり、天照大御神は、最初はこの土地に祀られ、ほどなく、宮川を下って、五十鈴川流域の現在の地に移動したということになるのである。

 

神は、このように、もともと自然の奥深いところに祀るのが本来のかたちなのではないかと思われる。しかし、そのようなところでは人々は自由に参ることもできにくいから、人里近いところに遷すということになるのであろう。そういう意味では、京都の上賀茂神社(賀茂別雷神社)も、元は後背地の「神山(コーヤマ)」に神が降臨したのであり、下鴨神社(賀茂御祖神社)もまた、その祭神は、比叡山麓の「御陰山」に祀られているのである。

祭神を祀るということは、その後の、宮の継続的な維持と運営が求められた。人家近くでないと、いろいろと差し支えることもあったであろう。つまりは、江戸期の伊勢参りのように、集客にふさわしい場所が必要になったものと思われる。

 

なお、瀧原宮であるが、厳密に言えば、参道手前側から「瀧原並宮」「瀧原宮」という順序で二社が並立して祀られている。どちらとも皇大神宮の別宮で、祭神は「天照御大神御魂」とされている。

この二社並立の理由はよくわからないようであるが、たとえば、京都上賀茂神社の社殿の様式として、「本殿」と「権殿」とが並んで建立されていることを思い出させるものがある。上賀茂神社の「権殿」は、式年遷宮の際に祭神が「本殿」から一時遷る仮の宮なのであるが、「瀧原宮」と「瀧原並宮」との関係もそのようなものに近いものがあるとすれば、あるいは、ここにはすでに、神宮の式年遷宮の原点としての痕跡が認められるということにもなるのだが、むろん、これは勝手な想像でしかない。

左「瀧原並宮」、右「瀧原宮」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

左が「瀧原並宮」、右が「瀧原宮」。規模や様式等、同じである。

 

 

―この稿続く―

 

2016.11.20 河地修

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