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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



講義余話

薬子の変と日本文学文化(二)

 

藤原式家と平城上皇家の没落

薬子の変の原点は、一言で言えば、平城上皇が、生まれ故郷の奈良へ帰りたかっただけのことではないのか、という思いがある。事実、平城は、譲位して上皇となった後、すぐに奈良へ帰っているから、この見方は首肯されるであろう。しかし、平城京への還都の勅令を出すに至っては、ただ単に帰りたかった、ということだけでは済まされないのである。

平城の譲位の理由は二つあったと思われる。一つは、自身の心の問題であった。そして、もう一つは、自身の子に皇位を継承させるためだった、と言えるのではないか。そのことを条件として皇太弟の嵯峨に譲位し、その後、我が子の高岳親王を即位させたかったに違いない。

 

古代天皇位の継承のあり方は、天皇の「子」の場合と、その「弟」の場合と、大きく二通りのかたちが認められる。時の天皇を基点とすれば、天皇の「血」を直近で受け継ぐものは、その天皇の「子」であった。だから、天皇の血を引くということにおいて、その濃さという点では、「子」が複数いれば、兄弟は同じという理屈だったのであるまいか。さらに言えば、天皇の后は、拮抗する勢力としての諸豪族をそれぞれ後見に持っていたから、単純に、最初に生まれたから、というわけにもいかなかったという事情もあった。従って、自身が即位した時に、その弟が皇太子となる例は、古代に多い。こういう慣習めいた皇位継承の文化(と言うべきか)が、あるいは、まだ残っていた時代だったのである。

 

薬子の変(八一〇年)は、平城が譲位した(八〇九年)その翌年に起こっている。譲位のとき、平城は、おそらく、同腹の嵯峨に配慮しつつも、早い時点での嵯峨の譲位を望んだものと思われる。嵯峨が譲位する前に自分が崩御でもすれば、自身の子である皇太子の高岳親王が危うくなることぐらいはわかっていたから、平城は、わずか三年という短期で譲位したとも言えるのである。要は次のことを考えた早期退位であった。しかし、そのねらいも、薬子の変により、すべてが水泡に帰した。

すでに述べたように、この変については、平城上皇の意を汲んで藤原仲成・薬子が、奈良への還都と平城の重祚をもくろんだもの、という見方が主流である。しかし、その場合、なにか腑に落ちないことが出てくるのである。重祚ということなら、何も平城は「三年」で譲位する必要はなかったのではないか。この変は譲位したその翌年のことなのである。天皇位への固執と平城京への還都なら、むしろ、そのまま天皇位に留まり、堂々と平城京遷都を打ち出せばよかった、とも思うのだが、どうであろう。

やはり、心を病んでいた平城は、自身の生まれ故郷に帰りたかったということが第一だったのではあるまいか。しかし、それでは、平安京には嵯峨天皇と側近の藤原北家冬嗣が残るわけで、政権の運営は、完全に藤原北家が担うことになる。当時十二歳の皇太子であった平城の子高岳親王の立場も不安定と言うしかなかった。

そして、藤原種継亡き後の式家の再興にあたっては、この時、頼るべきものとしては、やはり、平城上皇しかいなかったのである。そういう状況において、追いつめられた式家は、最後の大博打に打って出たのではないか。それが、平城京還都とさらに上皇の重祚ということであったと思われる。

事実、平城上皇の御所からは、精力的に勅書が発布され、いわゆる「二所朝廷」の状況が出来した。こういう状況を嵯峨天皇側が放置できるはずもなく、度重なる朝廷側からの圧力の結果、ついに上皇側が暴発したのであった。

仲成と薬子は、種継の死によって凋落しつつあった式家の再興を試みようとしたことは、当然のことと言わねばならない。しかし、そのことと、平城の譲位および旧都奈良への帰還とは、相容れないことではなかったか。平城譲位後政権を引き続きコントロールしていくには、早良親王の怨念を怖れて平城京への帰郷を願う平城の心に沿って行われなければならず、その平城が奈良に固執する以上、天皇位そのものを奈良に持ってくるしか方法はなかったのであろう。

 

平城は「うたの帝」であったと言われている。『古今集』「春下」に載せる次の一首は、おそらくは、譲位後平城故京に退いた時の春、眼前の桜の開花を詠ったものと思われる。

ふるさとと なりにし奈良の 都にも 色はかはらず 花は咲きけり

(往年の面影なく旧都となってしまったここ奈良の都にも、その美しさは変わることなく桜の花は咲いたことだ)

「ふるさととなりにし奈良の都にも」という表現には、かつて、『萬葉集』「巻三」の次の歌に見られるような、平城京が栄華の全盛であった時のことが、逆に対照的に意識されているように思われる。

あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり

(あをによしと称えられた奈良の都は、春に爛漫の花が咲き誇るように、まさに今が栄華の盛りであるよ)

盛りであった奈良の都も、今ではすっかり「ふるさと」となってしまった、という平城の歌の感慨からは、遷都後、平城故京がいかに寂れたかという風景が鮮やかに浮かんでこよう。

薬子の変は、もし成功していれば、平城上皇の重祚があったであろう。上皇の好むと好まざるとにかかわらず、そうなったであろう。なぜなら、その変に勝利することは、嵯峨天皇が退位するということであり、そうなれば、高岳親王の即位の前に、平城は重祚となったであろう。そして、その天皇を支える臣下が藤原仲成(式家)であったことからすれば、政権の担当は、北家というわけにはいかなかったかもしれない。

史実として、嵯峨天皇時代から始まった藤原北家の隆盛を思えば、この薬子の変によって、朝廷は安定したと言うことができる。今仮に、平城の重祚、奈良還都、さらに薬子の政権掌握、と考えただけでも、その後政治はおおいに混乱したとしか思えない。そういう意味では、歴史は、落ち着くべきところへ落ち着いた、とは言える。

~『王城の日本文学文化』より~

 

2017.03.09 河地修

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