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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



講義余話

『ひょっこ』と『源氏物語』(二)

 

『ひよっこ』には敵役がいない!

このように、『源氏物語』の時代から、エンターテインメントしてのドラマは、善悪双方に言えることではあるが、登場人物の人間性が誇張されるのは必然のことであった。そして、主人公を脅かす敵役(悪役だが最後には改心する)の敵対行為と主人公がその危機を乗り越えてゆくスリル感が、一方ではこういったドラマの魅力になっていることは間違いのないところなのである。

従って、私は、今回の連続テレビ小説の場合、主人公が故郷を離れ東京で生活を始めることになってから、さあ、これからどういう憎々しい敵役が登場するのかと、ある意味でその登場を心待ちにしていたのであった。

この『ひよっこ』の場合、主人公を苛める敵役(かたきやく)は、三回ほど登場するチャンスがあったように思う。一度は、主人公が集団就職して仕事を始める小さなトランジスタラジオの製造工場であった。馴れない仕事に失敗を繰り返す主人公は、同僚たちの足を引っ張ることとなって―意地の悪い先輩から苛められる―というストーリーは、連続テレビ小説の展開そのものと言ってよかったのだが、しかし、その予想は見事に裏切られた。

会社の寮である「乙女寮」で主人公を取り巻く同僚や先輩たちは、まるで絵に描いたような善人たちばかりなのであった。その描かれ方は、紫式部が言うところの「誇張」された世界と思われるほどであって、私の、曰く言い難い「違和感」は、実はこの時から始まったように思われる。

そして、その後、すぐにトランジスタラジオの工場が倒産し、再就職先探しに苦労する主人公は、かつて父親と縁があった小さなレストランに勤めることになる。このあたりの展開は、まさに「貴種流離譚」のあり方そのものと言っていいのだが、実は、このレストランでの採用にあたっては、作者(脚本作家)は、ここで新しい敵役が現れるかのように視聴者に意識させるのだが、しかし、この予想もあっけなく覆され、その敵役候補者と思われた同僚のウエイトレスも、底抜けと言っていいほどの善人なのであった。

さらに言えば、主人公は、レストラン勤務にあたって隣のアパートの一室に住むことになるのだが、そこの住人のうち一人ぐらいは敵役が現れてもよさそうなところ、ついに、その全員が主人公の味方(善人)であるという物語構成が明らかになるのであった。

このあたりから、私は、このドラマには、主人公を苦しめる敵役というキャラクターが設定されていないという事実に気が付いたのであった。これを、作者は意図的に行っているに違いない、と思い始めた時点から、私のこのドラマへの観方が変わったのである。

つまり、敵役としての悪役がいなということは、主人公が自身に襲いかかる数々の苦難を乗り越えてゆくというエンターテインメントドラマの痛快性がないということで、こういうドラマは、どうしてもスカッとした快感が乏しいのである。果たして視聴率は大丈夫だろうか?と、心配になって来たのはこのあたりからなのであったが、しかし、同時に、私は、この『ひよっこ』を通じて、連続テレビ小説の歴史において今まで味わったことのないレベルの高さに、次第に引き込まれてゆくことになったのである。

それは、日常に生まれる喜怒哀楽のようなものと言っていいかもしれない。いや、それは、喜怒哀楽よりももっと地味なものであり、生きている人々の生きる証としての生活の鼓動であり、その確かな歩みのようなものではなかったか。時に、声も聞き取れなくなるような細かく丁寧な会話の構成も、そこでささやかに生きる人物たちの生そのものの表象であったかと思われる。そういった登場人物たちの表情や会話から伝わってくる生きる喜びと哀しみを、この作品は見事に、そして、何よりもリアルに表現していたように思われる。

 

日常から生まれるドラマ

さて、再び『源氏物語』に戻るが、その首巻である「桐壺」巻から、敵役としての存在を強烈にアピールしたのは、弘徽殿女御であった。しかしながら、すでに述べたように、彼女は、主人公光源氏が復活を遂げてからは、その敵役としての役割を終えた。光源氏は、ついに自身の地位としては「准太上天皇」という最高位を極め、さらに、不義の子ではあったが、自身の子冷泉が天皇位に即くという、言わば、公私ともに、彼のもとには最高の栄華がもたらされたのであった。

本来のエンターテインメントのドラマは、この栄華獲得の時点で、「めでたし、めでたし」として結末を迎えるものなのだが、紫式部は、この先「若菜」以降の世界として第二部を、そして、紫の上や光源氏の死去後も、「宇治十帖」の世界として第三部を展開してゆくのは周知のとおりである。 

そして、このことは、意外と見過ごす点ではあるが、これら第二部、第三部とも、それぞれの物語世界への導入役として大きな役割を果たす登場人物は、かつての光源氏の敵役であった弘徽殿女御の関係者なのである。つまり、第二部の場合は、弘徽殿女御の長男朱雀院であり、第三部宇治十帖は、その昔、光源氏に敵対する弘徽殿女御方勢力の象徴(皇太子)として担ぎ出されようとした朱雀院や源氏の異母弟八の宮なのであった。

二人とも、露骨に光源氏に敵対したわけではないが(八の宮のことは宇治十帖冒頭「橋姫」で初めて紹介される)、あきらかに、本来は主人公の栄華への階梯を妨害する存在であった。これらの人物を新しい世界の重要な登場人物として造型することの意味は、『源氏物語』の作品論として別に論じられなければならないが、第二部、第三部ともに、この二人の人物には共通した人物設定が行われている。それは、晩年を迎えながらも、彼らは歳若い娘を持ち、自らの死後、その行く末のことを深く案ずるというきわめてリアルな設定なのであった。年老いた「親」が、我が娘の将来への深刻な苦悩を披歴するところには、すでに、痛快無比の面白さが要求されるエンターテインメントドラマとしての印象は薄い。あるのは、いつの時代でも変わらぬ「親の心」というものであろう。このあたりのことをテーマとし、読者を新しい世界に誘おうとした紫式部の作家としての意欲には、正直なところ、驚嘆するしかない。

『源氏物語』第二部、第三部の物語としての主題は、ここで簡単に触れるわけにはいかないが、しかし、確実に言えることは、第一部に見られたように、悪意ある敵役が登場するかたちの山あり谷ありの苦難を乗り越えていく活劇的なエンターテインメント性はほとんどないということである。あえて言えば、ここで描かれているのは、日常に起こり得る悲劇と言っていいような問題である。作者は、それを、地味と言えば地味な日常生活の繰り返しの中で、登場人物たちに身近に寄り添いつつ、心の内部まで丁寧に描くことによって、読者の共感を獲得することに成功したのである。

今回の朝の連続テレビ小説『ひょっこ』は、おそらく、実験的という言葉を使っていいものならば、それは、実験的に制作されたものではないかと思う。少なくとも、従来の連続テレビ小説に見られた活劇的なエンターテインメント性を削ぎ落として、主人公と彼女を取り巻く登場人物たちの日常を、精密に、かつ淡々と描こうとしたことは確かである。

『ひょっこ』について、その作品のテーマに至るまで『源氏物語』の第二部、第三部と比較するつもりはないが、少なくとも、ドラマとして、従来のエンターテインメントドラマの次元とは異なる世界を創造したという点において、この『ひよっこ』は、『源氏物語』と同様、その時代に鋭い光彩を放つ作品になったと評価していいように思われる。


 

2017.10.13 河地修

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