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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



講義余話

『古今和歌集』のメッセージ(四)

 

『萬葉集』「巻第一」巻頭二首考―「天皇」のメッセージ

人間にとって、初めての出会いというものほど、印象深いことはあるまい。文字どおりの人との出会いもそうだし、未知の世界への訪問もそうである。このことは、あらゆるジャンルに共通することであって、文学作品の場合は、まさにその冒頭ということになる。『萬葉集』という歌集の場合、その冒頭は強く印象に残るものであった。なぜなら『萬葉集』「巻第一」の巻頭は、「天皇」の「うた」であったからである。

古代中央集権国家は、藤原京から平城京への遷都(710年)をもって完成確立したと言っていい。この国の中央集権国家への道は、大化改新(645年)から始まった。その骨格は、「天皇」を頂点とした律令による統治国家であった。大化改新以前は、各地の実力者がそれぞれの地に「大君(オホキミ)」として君臨していたが、その中で、大和地方の「大君」が中央集権の覇権を握る新しい「王」となった以上、それまでの呼称である「大君」のままでは、公式には具合が悪かったであろう。

そこで新しい称号が必要となったが、それが、和訓の読み名の「スベラミコト(スメラミト)」であり、その表記に「天皇」という漢語を当てたのである。「スベラミコト」とは「統べる大君」といったところで、諸国の大君に君臨する王の誕生であった。朝廷としては、その「天皇(スベラミコト)」の誕生を、何らかの媒体を通じて、広く人々に知らしめる必要があったに違いない。それが『萬葉集』「巻第一」の使命であったとするならば、それには、「天皇(スベラミコト)」という称号の発信と、それが今までの「大君」とは一線を画する存在、すなわち中央集権国家に君臨する「天皇」のイメージを強く発信する必要があった。それが、巻頭二首の「雄略天皇御製」と「舒明天皇御製」だったということになる。

次にその二首を、題詞とともに掲げてみよう。

 

一、天皇御製歌
籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座せ 我れこそば 告らめ 家をも名をも
(天皇がお詠みになられた御歌
籠も、それもきれいな籠を持ち、堀串も、これも立派な堀串を持ち、この岡で、菜を摘んでおられる娘よ、家はどこか教えて下され、名前も教えて下され、この空のもといっぱいに広がる大和の国は、そのすべてをこの私が支配しているのだが、そのすべてに私が君臨しているのだが、その私から教えることにしよう、私の家の場所も名前も)

二、天皇香具山に登りて国見したまひし時の御製歌
大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は
(天皇が天の香具山に登って国見をなさった時の御歌
大和には、多くの山があるけれども、見事な姿を示している天の香具山に登り立って、国見をすると、国中からは炊事の煙があちらこちらから立ち昇っている、水面には多くの水鳥が飛び廻っている、なんとすばらしい国であることか、蜻蛉の島大和の国は)

 

雄略天皇御製―強力な天皇の「いろごのみ」(恋)のうた

「巻一」の巻頭に置かれる雄略御製は、おそらくそれが巻頭に置かれるものとして最もふさわしいということで置かれたに違いない。それは、当該歌が最も古い天皇の詠歌であると同時に、その詠歌からもたらされるイメージが、新しく古代中央集権国家の頂点に立った「天皇」(スベラミコト)のあり方として、きわめてふさわしいということであった。

歌意は、岡に登った雄略が若い娘に出逢い、そこで間髪を入れずに求婚するというものである。これは今風に言えば、異性に出会った直後、それこそそのままなりふり構わず求婚するという体のもので、情熱的愛情の表出ということで終わる話かもしれない。しかし、この場合、雄略は、求婚の言葉「家告らせ 名告らさね」に続いて「そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座せ」と詠うのである。この雄略の言葉は、この国はそのすべてが自分のものである、だから、あなたも私のものなのだ、と謳っていることになろう。つまり、これは、国の絶対的王者にのみ与えられる力(王権)に裏付けられた「いろごのみ」の行動と言うべきなのである。

天皇の「いろごのみ」とは、少し意外に思う向きもあるかもしれないが、中央集権により「国」を「統(す)」べることになった天皇には、「いろごのみ」の資質を持つことが絶対的に求められたのであった。それは、天皇位が、その血縁によってのみ継承が可能となるものであって、そのために、天皇には婚姻による子の誕生が確実に求められたのである。そういう意味では、妻(后)が少なくては心許ない、という現実的事情もあったであろうし、さらに言えば、天皇に后を差し出す側(皇族を含む諸豪族)からすれば、后は複数必要とするという論理も生まれたに違いない。それは、后の子がやがて皇位を継承する可能性につながるからにほかならない。諸豪族にすれば、「天皇」を血縁の「身内」から出すことで、一族の発展を図る必要があったのである。

いずれにしても、多くの子をなすにあたっては、天皇は「いろごのみ」でなければならなかった。その「いろごのみ」(好色と言ってもいい)は、絶対的な王権に裏付けられるものであったから、どのような禁忌(タブー)も許されるという性質が生まれた。だから、記紀神話に見られるような「姉妹婚」も可能であったし、人妻や、あるいは神に仕える神聖な巫女をも我がものとすることができたのである。雄略天皇御製は、そういう「天皇」にのみ与えられた「いろごのみ」像の強烈な表出であったと言えるだろう。

ただし、言うまでもないことだが、恋は、天皇のみが行うものではない。誰しもが恋をし、その結果としての婚姻に至り、子ができれば、それは家の繁栄に繋がることであった。稲作農耕の生業を主要な経済活動に据える古代日本社会にとって、子孫の拡大は、家や一族の労働力の拡大であり、ひいては、民の暮らしを支える国の経済力の増強に直結するものだったのである。「恋」は、新しく誕生した中央集権国家にとって、天皇を率先垂範とする優先事項であったと言っていい。

 

舒明天皇御製―民の暮らしを祈る「天皇」の心

雄略天皇御製に続く二番歌である舒明天皇御製もまた、天皇御製としてまことにふさわしいものがあると言えるだろう。

舒明天皇御製は、「天の香具山」での「国見」の歌である。前述したように、舒明天皇は、天智、天武天皇の父親であり、古代中央集権国家黎明期の天皇と言うことができる。ここで注意したいのは、舒明御製が、この「巻一」の二番歌の位置に、雄略御製に続けられるかたちで配列されたということであろう。

当該歌は、香具山に登り立った舒明が二つの光景に注目するという構造を呈している。一つ目の光景とは、「国原は 煙立ち立つ」というものであり、二つ目は「海原は 鴎立ち立つ」というものである。

一つ目の「国原は 煙立ち立つ」風景は、「炊煙」と考えるべきであろう。いわゆる炊事の「煙」が立ち昇る風景である。このことについては、すでに仁徳天皇に関わる故事がよく知られている。

『古事記』『日本書紀』には、難波高津宮に即位した仁徳天皇が、「仁徳天皇四年の春二月」(日本書紀)に「高台」に登って「四方」を見渡したところ、煙が立ち上っていないことに気付いた、これは民百姓が貧しい生活をしており、それで炊事の煙が上がらないのだとして、以後三年の間、納税を免除したという逸話である。いわゆる仁徳天皇の「聖帝伝承」ということになるが、おそらく、この伝承は、古くから人々の間では伝えられていたに違いない。つまり、天皇(大君でもいい)たる存在の一つの理想像が、この炊煙を見る行為に昇華したものと思われる。

仁徳天皇は、4世紀末から5世紀前半の天皇(当時は「大君」である)であって、後世の天皇にとって、それは一つの仰ぐべき指標であった。したがって、舒明天皇(在位、629~641)が、聖帝仁徳に倣うかたちで「天の香具山」に登り、いわゆる「国見」を行うということは十分に考えられることであった。舒明は、大和盆地の各所から立ち昇る炊煙を視認し、民の暮らしの安寧を確信したのである。

さて、次の「海原は 鴎立ち立つ」であるが、当然のことながら、「天の香具山」から海洋が臨まれるはずもなく、この光景は、大和盆地内のものとしなくてはならない。『日本国語大辞典』が、「海原」という言葉について、当該の舒明御製を引き「湖、沼、池などの、ひろびろとした水面」と説明するとおりであろう。

従って、ここで舒明が見た「海原」とは、大和盆地内の湖沼であって、そこに「鴎立ち立つ」とは、諸注が指摘するように、「水鳥」がさかんに遊んでいる風景を言うのである。古代大和朝廷に属する人々は、もともと海洋に深い縁がある人々であったから、古代の言葉として、海鳥を「鴎(かまめ)」と言い、さらに河川や湖沼の水鳥も、そのまま「鴎(かまめ)」と呼んだことは十分に考えられる。

それにしても、「国原は 煙立ち立つ」炊煙風景から「うまし国ぞ」という歓喜にも似た感慨は容易に導くことができるが、この「海原は 鴎立ち立つ」はどうであろうか。一見「国原」の「煙」と「海原」の「鴎」とは相容れないように思われるが、実は、この表現には、大和盆地における自然と人為との見事な融合が謳われているのである。

大きな河川がほとんどない大和盆地には、稲作農耕の水不足を補うために、灌漑用の湖沼がどうしても必要であった。そのために、古くから多くの池が築造されたのであり、その事業こそ古代の大君の為政の一環であったと言えるだろう。たとえば、香具山の近くには「磐余池(いはれのいけ)」があったと伝えられるが、これは、仁徳天皇の子である履中天皇が築造したという記事が『日本書紀』には記されている。

この舒明御製における「海原」が「磐余池」であるかどうかは別にして、そこで「鴎立ち立つ」風景が現出することは、取りも直さず、豊かな水資源に裏付けされた稲作農耕の生業が保証されるということであった。すなわち、この風景こそ「煙立ち立つ」という民の暮らしを支える五穀豊穣を約束することでもあったろう。この豊かな水資源の存在もまた、確かに「うまし国ぞ」という詠嘆を導くものと言えるのである。

言うまでもないことだが、古代、天皇は、民の暮らしを保証しなければならなかった。舒明は、「国見」により、そこに民の暮らしが守られていることを確信し、さらに、その暮らしを支える自然が、あくまでも穏やかに、それも日常の風景として、さらに継続することを祈ったのである。舒明御製から、民の暮らしの安寧を祈る「天皇」の心を読み取らねばならない。


 

2021.4.4 河地修

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