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王朝文学文化研究会 


文学文化舎


講義余話

10世紀の物語事情―『三宝絵詞』を読み解く―(1)

10世紀の物語事情をかなり詳細に伝えてくれるものとして、永観2年(984)の『三宝絵詞』がある。源為憲が執筆したもので、円融天皇女御であった冷泉天皇第二皇女尊子内親王が、天皇崩御を受けて出家したため、仏道への帰依とその心構えを説いたものである。

為憲は、その「序」のなかで、当時の女性たちの「つれづれ」の生活を慰めた「物語」を取り上げ、為憲の立場から「物語」に対する論評を加えている。次に、その箇所を引用しよう。

物語と云ひて、女の御心をやるもの、おほあらきの森の草よりも繁く、荒磯海の浜の真砂よりも多かれど、木、草、山、川、鳥、獣、魚、虫など名付けたるは、物言はぬ物に物を言はせ、情なきものに情を付けたれば、ただ海の浮木の浮かべたる事をのみ言ひ流し、沢のまこもの誠なる詞をば結びおかずして、伊賀のたをめ、土佐のおとど、いまめきの中将、なかゐの侍従など云へるは、男女などに寄せつつ花や蝶やと言へれば、罪の根、言の葉の林に露の御心もとどまらじ。

まず冒頭、「物語と云ひて、女の御心をやるもの」と、当時の高貴な女性たちにとって、「物語」というものが、その退屈な生活を慰めるものであったことがわかるのであるが、「物語」というものが「おほあらきの森の草」よりも、また、「荒磯海の浜の真砂」よりも「多」かったというのである。このことは、この『三宝絵詞』が執筆された当時、すなわち、永観2年(984)当時には、「物語」は数え切れないほど存在していたということになる。だが、現存する永観2年(984)当時までの物語と言えば、その名前だけが残っているものを含めたとしても、その数は数作品に過ぎない。この『三宝絵詞』の記事と現実との乖離は、あまりにも大きいと言わねばならない。

しかし、『三宝絵詞』の記事もまた疑うことなき現実であって、つまりは、当時、膨大に存在したという「物語」は、そのほとんどが消えてしまったということになるのである。この消えてしまった「物語」とは、いったいどのようなものであったのだろうか。『三宝絵詞』の叙述を分析すると興味深いものがある。

すなわち、「木、草、山、川、鳥、獣、魚、虫など名付けたるは、物言はぬ物に物を言はせ、情なきものに情を付けたれば」とある箇所がそれで、これによると、これらの物語は、「木、草、山、川、鳥、獣、魚、虫」など、人間以外のものが主人公であったようだ。これらは、昔話で言うところの、いわゆる「異類」と総称されるものであって、当時の物語としては、これらがまず先頭に上げられているという点に注目しなければならない。しかし、あえて指摘するまでもないことだが、こういった種類の物語は、平安時代に書かれたとわかるものは、今日まったく残っていない。また、当時存在していたという文献上の記録さえほとんどないのである。すなわち、跡形もなく消え去ったということになるのだが、しかし、『三宝絵詞』によれば、こういった物語は、当時の10世紀王朝貴族社会において、大量に出まわっていたということになるのである。この「異類を主人公とする物語」とは、今言うところの、いわゆる「児童文学」の範疇に入るものではなかったかと思われる。つまり、「女の御心をやるもの」としての「物語」とは、当時、まず幼い姫君に提供された「現在の児童文学のようなもの」が最初のものだったということなのであろう。

私は、必ずしも児童文学の世界に詳しいわけではないが、いつの時代においても、幼児、児童への教育的文化は成立するものであろう。食うや食わずの極貧の時代はともかくとして、一般的社会においては、幼児や児童を対象とする書物などが多く制作されるのである。現在、おびただしい児童書が書店の一コーナーを形成しているのは、現代日本社会の、ある程度の豊かさの表れであって、それらの書物を通じて、人は、その子の人間的成長を願うのである。

10世紀王朝貴族社会は、その最上流階級に限って言うならば、実に豊かな社会であった。その最上流階級とは、天皇家や摂関家などの権門勢家を言うが、そういう家々においては、姫君教育の一環として、現代の児童文学に相当するものがおびただしく制作されていたものと思われる。最上流貴族の邸内においては、幼い姫君には、たわいのない「異類を主人公とするような物語」が、おそらくは「絵」を伴うかたちで、提供されていたのではあるまいか(『三宝絵詞』も「絵」を伴うという点、これらの「物語」と同様の性質を持つ)。それらは、現代日本の幼児教育の現場で行われるような「読み聞かせ」のスタイルであったことは間違いのないことであろう。そして、当時「読み聞かせ」を行っていた人物は、むろん、当家に仕えていた有能な「女房」に他ならなかった。

しかし、これらの「児童文学」に相当する物語群は、平安時代の文学の歴史から消滅したことになるのだが、それは、今日、我々の家から、子の成長に伴って、大量の児童書が消えていったことと、同様の流れであったと考えることができよう。姫君教育の一環としての書き物ではあっても、それは、歴史においては、個人の生涯という限定された時とともに、はかなく消えていく宿命と変わらないものであった。

源為憲は、これらの大量にあった幼い姫君向けの「物語」について、「木、草、山、川、鳥、獣、魚、虫など名付けたるは、物言はぬ物に物を言はせ、情なきものに情を付けたれば、ただ海の浮木の浮かべたる事をのみ言ひ流し、沢のまこもの誠なる詞をば結びおかずして」と言うのである。「木、草、山、川、鳥、獣、魚、虫」などに、名前を付け、言葉を言わせ、心を持たせることは、確かに、そのすべてが「浮かべたる事」=「嘘」であることには違いない。仏教とは真理を追究するものであって、「嘘」はいけない。「誠なる詞をば結びおかず」=真実の言葉で述べることなどない、だから、「物語」はだめだ、と言うのである。

-この稿続く-