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王朝文学文化研究会 


文学文化舎


講義余話

「古事記偽書説」と『古事記』の本質

『古事記』は和銅5年(712)太安万侶によって撰録されたものであり、日本最古の古典と言うことが出来る。 しかし、この古典の存在については古くから多くの疑問符が付けられていた。というのも、現存最古の『古事記』の写本は、いわゆる「真福寺本」(国宝)で、その書写作業が終了したのは応安5年(1371)のことであった。現時点では、これより古い写本は存在せず、712年の成立からおよそ650年の時の経過を経て、世に表れたことになる。他の古典と比較しても、この時の断絶の長さは異様であって、たとえば、同じ国家の制作という観点から『古今集』の場合を見てみても、『古今集』の成立は延喜5年(905)であり、最古の写本の存在は元永3年(1120)に書写されたと思われる「元永本」(国宝)であるから、その間の時の経過は、およそ200年ということになる。また『源氏物語』にしても、最初の写本が出現するのは、成立より200年足らずの後のことなのである。これらの古典の例と比較しても、『古事記』の650年という時の経過は長過ぎるであろう。

このようなこともあって、『古事記』の成立は平安時代に入ってからではないかとするいわゆる「古事記偽書説」が古くから存在してきたのであったが、しかし、その偽書説を吹き飛ばしたのが、昭和54年(1979)1月20日の太安万侶の遺骨、および墓碑の発見であった。私は衝撃をもってこの時のニュースに聞き入ったことを覚えている。「偽書説」については、私は大学の講義においてはじめて知り、さらに、私の恩師 の故石田穣二博士は、慎重な言い回しではあったが、『古事記』は「偽書説」の方向で考えるべきだろうとも述べておられたので、この太安万侶の墓と遺骨の出現には正直言って驚いた。そして何よりも思い知らされたことは実証の恐ろしさと凄さということであった。文献から組み立てられる仮説など、遺物の発見という実証にあっては、なんと脆いことか。石や木簡資料の存在する上代ならではの恐ろしさと凄さではあるまいか。

それにしても、「偽書説」が吹き飛んでよかったとつくづく思う。古代日本の中央集権国家は、大化の改新を経て壬申の乱によって確立されたというのが本講義の基本的姿勢であるが、その中央集権国家の確立が、都城の建設(藤原京・平城京)、律令の整備(大宝律令)、 東国経営(東国侵略)、天皇の名の下での歌集の編纂(万葉巻一、巻二)、修史作業(古事記)、対外戦略(日本書紀)という展開をもたらしたのである。『古 事記』とは、そういう歴史の流れの中でこそ捉えられなければならないのであって、平安時代初期の成立などという「偽書説」は、このような流れをまったく無視しているに等しい。

『古事記』は、中央集権国家の確立に即した修史事業であり、天武天皇による、天皇家のための歴史作り、いわば歴史の中央集権化であったと言っていい。