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王朝文学文化研究会 


文学文化舎


講義余話

日本文芸史素描-「うた」-

昨年度の講義余話で も書いたことだが、日本の文芸の骨格は、古代から明治期前半まで、詩文(韻文)であった。なかでも「うた」は、人々の暮らしの中でおのずと生まれてくる温もりのようなものであったろう。それがなければ生きづらいし、「うた」をうたうことで、人はどんなにか慰められてきたことだろう。『古今集』「仮名序」に おいて、紀貫之が「生きとし生けるもの、いづれかうたをよまざりける」と述べたのは、この世に生を受けたもの、すべてが「うた」をうたうと強調してみせた もので、まさに名言であった。

古代日本、特に7世紀ごろまでの文芸は、この「うた」が主流であったと考えてよい。いわゆる「古代歌謡」として諸文献(記紀万葉)にその痕跡を遺している ものである。これらの古代歌謡の特色は、ほとんどが音数律を有しておらず、当時の人々のごく素朴な口吻の反映ではなかったかと思われる。ただし、今に残っているものの多くは、天皇家やその周囲の家々の伝承(歴史)に関わる「うた」-歌謡であった。

これら音数律を持たない歌謡は、いつから「五七五七七」の音数律を持つものに変化していったのか、またその要因など、よく解らないことが多いが、あるいは、西暦618年に建国された唐の存在-唐詩(五言詩・七言詩)の確立とその影響-と無縁ではないようにも思われる。しかし、この問題については、今は措こう。

いずれにせよ、五七五七七の音数律を持つ「うた」、すなわち「短歌」のスタイルは、藤原京時代(694~710)には、すでに確立していたことが、『萬葉 集』をみるとよくわかる。持統天皇の御製「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山」は、初夏、藤原京の東面に横たわる天の香具山を眺めた時の詠嘆である。

『萬葉集』を経て、905(延喜5)年の『古今集』の成立により、この国に本格的な和歌の歴史が築かれるのだが、天皇の名の下に国家が歌集を編纂する「勅撰和歌集」の歴史は、この後、1439(永享11)年の『新続古今集』に至るまで、530年余りもの長きに渡って、累々と築かれた。そして、その後は、勅撰という形こそ取らないまでも、「古今集的世界」は、1898(明治31)年、正岡子規が『歌よみに与ふる書』で、それを全面否定するまで続いたのであっ た。まさに、日本文芸の歴史は、「うた」=「和歌」の歴史と言うにふさわしい。

この「うた」の歴史から派生するかたちで、中世室町期、安土桃山戦国期に「連歌」が隆盛し、さらに、近世江戸期に「俳諧」が成立したのである。

日本文芸史の骨格に、まず「うた」を置いてみることで、およそ7世紀から始まるこの国の文芸の歴史はずいぶんと分かりやすくなるはずだ。そして、大津京時 代(667~672)から本格的に始まった「漢詩」も、この国の文芸の歴史を華やかに彩った。漢詩の歴史は、これまた「和歌」の歴史と並行して、明治期まで存続したのである。すなわち、この国の文芸の歴史は「韻文」の歴史であった。

この「韻文」の文芸の歴史の間隙をぬうように、平安時代以降、物語、日記、随筆等が成立し、「散文」の文芸もまた、発展したのだが、天皇や国家とは無縁の世界での創造であった。しかし、近現代が、“合理と個”の時代であることに相応ずるがごとく、近現代の文芸が、「散文」中心となっていることは言うまでもなかろう。