河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎


講義余話

吉野ヶ里と三内丸山―日本文化の"あけぼの"―

 

弥生文化―吉野ヶ里遺跡

弥生文化の遺跡である吉野ヶ里が、本格的にこの地上に姿を現したのは、1989年(平成元)のことであった。弥生文化は、稲作農耕の生活形態を有する渡来系の人々が生み出したものであるから、その大規模集落の遺跡が、朝鮮半島に程近い北部九州(佐賀平野)から見出されたことは、ある意味で予想通りというか、少なくとも、私の気持ちの中では、驚天動地というような印象は、まったくなかった。

そして、個人的な事情から言えば、私の家にも小さな田畑があって、私自身、子供のころから、良くも悪くも、稲作農耕の民(百姓)としての生活を、ある意味つまみ食い的に体験済みでもあったから、その「祖」としての弥生人の遺跡が、ああいうかたちで出てきたことには、正直なところ、内心嬉しかったような記憶がある。

吉野ヶ里遺跡

環濠に囲まれた吉野ヶ里遺跡。吉野ヶ里遺跡を東西から挟むように、背振山を源流とする二つの川(田手川・城原川)が流れている。

ところで、現存する日本の「家」で、最も長い歴史(この場合、伝承と言った方が正確だが)を持つのは「天皇家」であろう。その長さとは、他家とは比較しようのない、"空前の"長さと言っていいのであって、おそらく、世界の始まり(天地開闢)以来の歴史を持つ家など、たとえそれが伝承であったとしても、我が国では稀有な存在と言っていい。

 

天皇家の「祖」が、稲作農耕の民であったことは明白である。天皇家に伝わる神事(祭祀)は農耕や稲作に関わることが多い。また、今日においても、天皇自身が、毎年初夏の田植えのシーズンには、形式的であれ、自ら田植えを行っていることや、秋の新穀を、毎年、11月23日、宮中において、「新嘗祭(にいなめさい)」のかたちで神に奉げていることなど、天皇家が、遥か古代から稲作農耕の民の中心に位置してきたことの表れと言える。それにしても、この、かつて「新嘗祭」としてあった11月23日を、戦後「勤労感謝の日」として国民の祝日にしたのは、いわゆる「戦後民主主義」というもののわかりやすい帰結ではあったが、しかし、そのおかげで、この国の原点が「瑞穂の国」であったということを国民が忘れることになってしまった、と「瑞穂の国」の「民」を自認する私は、今でも残念に思うのだ。とにもかくにも、「大和朝廷」とは、古代稲作農耕集団の展開の一つの帰結でもあった。

吉野ヶ里遺跡

吉野ヶ里の北方には背振山地が控える

 

 

 

 

 

このような"この国のかたち"の原点と言っていい稲作農耕の営みは、日本列島において、自然発生的に生じたわけではない。むろん、稲穂が勝手に飛来してくるわけはなく、それは、多くは朝鮮半島からの渡来人たちによってもたらされたものに他ならない。もしも、稲作農耕の営みをこの国に最初にもたらした人々(弥生人)が、天皇家の祖先を中心とする人々であったと仮定するならば、彼らは、紛れもなく、朝鮮半島からの渡来人であった。

すなわち、

渡来人―稲作農耕―弥生人―倭国―大和朝廷―天皇家―古代中央集権国家―日本

という系譜が、大胆ではあるが明確に想定できるのであって、この国のかたちの原点として、稲作農耕社会というものを、その文化の基軸に据えなければならないのである。少なくとも、我々の歴史として視認しうる遡及世界は、弥生人の文化、吉野ヶ里遺跡にあることは、明白なのである。

 

私は、この国が、初めて国家としての骨格を持つのは、大化の改新(645)以降のことだと思っている。国家が成り立つための条件が、租税と法と中央集権であるとするならば、春夏秋冬の「四季」に彩られる瑞穂の国の"国家"は、間違いなく、7世紀後半から開始された。そして、その国家の屋台骨を支えた財源は、むろん"稲穂"であった。爾来、この国の財政は、明治維新の第二の中央集権国家の樹立を迎えるまで、基本的には、この「稲穂経済」が支え続けたのである。

そういう意味で、この国の文化的原点は、稲作農耕の"弥生文化"であると規定することは、あくまでも正しい。と同時に、その国家的原点は、天皇家を中心とする"大和朝廷"であった。そして、機械文明の席捲する今なお、我々は、「瑞穂の国の民」であることに郷愁を持ち続け、その文化的感受性の中に生き続けている。

 

縄文文化―三内丸山遺跡

しかしながら、1995年(平成7)、北の大地から、驚くべき発見のニュースが日本全土を駆け巡った。青森の三内丸山遺跡である。

この列島の遥か古代に"文化"の痕跡を残したのは、弥生人だけではなかった。それよりも4、5千年も前に、すでに、この列島には、弥生文化とは異質の文化が花開いていた。すなわち、"縄文文化"というものがあった、という明確な事実の発見である。

三内丸山遺跡

三内丸山遺跡

縄文時代という認識について、私は、日本の歴史年表にはぴったりと収まりきらないような、何らかの違和感を、子供のころから感じていた。この違和感とは、今にして思えば、何よりも、彼らが稲作農耕の民ではなかった、ということが大きかったように思う。

さらに言えば、彼らに対して、変容する動植物の生態系に応じて、時として自由に時空を移動する原人のような印象を持っていたから、コミュニティーと言っても、それは小規模なもので、当然人間社会から生れる文化文明的要素とはほとんど無縁であって、せいぜい、原野で土をこねて焼き、土器や人形(土偶)を作っていたという程度の印象であった。

ともかく、彼らは、「我々」の「瑞穂の国の歴史」には、とうてい連なる人々ではないという強い認識があったことは事実なのである。

 

ところが、である。驚いた。まさに、驚天動地とはこのことであった。1995年(平成7)の三内丸山遺跡の発見のニュースは、私の抱いていた"縄文人"のイメージが根底から覆ってしまったのである。

連日の報道から明白にわかったことは、そこには明らかに「ムラ」と呼ぶべき集落、すなわち、かなりの規模を持つコミュニティーの存在があったということである。大型の建物跡があり、大規模なゴミ捨て場も設けられ、そして、大規模墓所もあった。コメがないというだけのことで、弥生人社会と本質的には何ら変わることのない"社会"というものが、そこにはあったのである。

そして、さらに驚いたことは、ここから「翡翠(ヒスイ)」が出てきたということであった。「ヒスイ」が装飾品であり、縄文人(おそらくは女たち)が宝飾という「お洒落」をしていたということに驚いたのではない。彼らが、交易をしていたということに驚いたのだ。

言うまでもなく、「ヒスイ」は、新潟の糸魚川(姫川)に産出する。この地の産である翡翠の勾玉が三内丸山遺跡から出土したことは、当時の縄文人たちが、北日本規模の交易文化圏を持っていたことを物語るのだ。さらに、北海道産の黒曜石の存在は、この交易圏が、北海道までも包含するものであることを示しており、明らかに、彼らは、北日本の各地を、洋上交通を駆使して行き来していたのだ。

 

"天地開闢"という言葉は、瑞穂の民である天皇家を中心とする古代歴史観に発する概念だが、そこには、この列島の先住民としての縄文人の存在が欠落していた。日本列島には、弥生文化に先行する非稲作農耕の縄文文化が存在していたことは確かであって、それが、堂々と"社会"を形成しつつ北日本、三内丸山の地に痕跡を印していたのである。 

東日本を中心とする縄文人たちの遺跡の展開は、明らかに、時代とともに、彼らが北へと移動を余儀なくされたということを示していよう。西からの弥生文化の波及の中で、先行する縄文文化との衝突は、十分に想像することが可能であって、それらの対立、もしくは融合(最近では縄文遺跡からも稲作の痕跡を認める報告がある)の果てに、やがて、この国の文化の原型(稲作農耕文化)は形作られたのである。

 

古代東日本を考える時には、そこにかつて存在した非稲作農耕社会を意識しなければならないのは当然であって、我々の国の"あけぼの"として、「弥生文化」とは別に、明確に「縄文文化」というものを位置づけなければならないだろう。あるいはまた、縄文の"匂い"を残す地域との葛藤という観点から、古代大和朝廷の東国進出(侵攻)に関わる様々な問題は考えられていいように思う。