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王朝文学文化研究会 


文学文化舎


講義余話

初めての本格都城―藤原京断章―

 

古代、藤原京(694~710)が都城として建設されるまで、大和朝廷の都は、基本的に各地の「宮」であった。「宮」とは、原義としては「御屋(ミヤ)」であって、尊貴な人、もしくは神が住む、美麗で崇高な建物を指す言葉であった。同時にその建物に住む主人のことをも指すようになったのであり、「宮」が今でも、神殿そのものを指したり、神であったり、さらには天皇や天皇家の人であったりするのは、そのためである。むろん「都」という言葉が「宮処(みやこ)」ということであって、「宮」の所在を示す言葉であることは言うまでもない。

 

古代の天皇は、神に最も近い存在であったから、当然その住居も神聖なものでなければならなかった。従って、時の天皇が崩御した場合には、その都度、穢れを避けるために、頻繁に他所に遷宮(歴代遷宮)したものと思われる。古代飛鳥の地に、夥しい古墳群と宮殿跡とおぼしき無数の遺跡が展開するのはそのためである。いわば、天皇が崩御するたびごとに、隣村に引っ越すような気楽さで遷宮したのであった。

 

しかし、中央集権国家の樹立に伴って、巨大な「都城」が出現した。すなわち藤原京の造営(694)である。基本的にすべての貴族とその家族とを、天皇の所在地である「宮」に居住させるというもので、そのためには、大規模な都城が必要であった。諸豪族の既得権益を廃し、天皇の名のもとに、統べて権力を集中させるためには、諸豪族たちをそれぞれの拠点から引き剥がすことが絶対的に必要だった。「大化の改新」直後、一時的に、宮が飛鳥の地を離れたのも、その目的の大半は、諸豪族たちの力の削減対策ではなかったかとも思われる。

 

いつの頃からか厳密にはわからないが、大和朝廷は、現在の奈良県南部、飛鳥地方をその拠点としてきた。途中、諸般の事情から、現在の大阪府に「難波宮」(645)を置いたり、また琵琶湖畔に「大津宮」(667)を置いたりしたが、あくまでのかれらの拠点は飛鳥周辺であった。だから、大津宮が壬申の乱(672)で廃墟となった後、天武天皇が、宮を「飛鳥浄御原宮」に制定したのは、あくまでも、その故郷に戻っただけのことであった。しかし、狭隘な飛鳥では、とうてい中央集権国家にふさわしい大規模な都城は造営できなかったのである。

かれらは、山懐の谷間といったおもむきの飛鳥の地から、そのすぐ北側に広がる、「大和三山」のある広大な空間に移動した。これが藤原京であった。

 

藤原京が棄都されたのは、和銅3年(710)のことであるから、単準に計算すれば、16年の命であった(実際には平城京への遷都はその2年前から公表されていた)。藤原京は、天武の中央集権国家作りの象徴のようなものであったから、それなりに十全なる準備が費やされたものと推測されるが、作ってみたら、意外と、不具合だったということで、気楽に棄てられたのではないか。そういう気楽さは、逆に言えば、当時の天皇や国家に、それなりの力というものがあった証左だとも言えよう。

藤原京の棄都については、近年研究テーマとして注目されるようになったが、それまでは、大規模な藤原京ではなくて、小規模な(あるいは中規模な)藤原宮という評価だったから、単準に、中央集権国家の都としては手狭だった、ということで、藤原京棄都、すなわち平城京遷都が説明されてきた。

しかし、藤原京は、当初から大規模都城として建設されたことが、平成8年(1996)の発掘調査で証明されたのだ。いわゆる「大藤原京説」の実証である。つまり、藤原京は、当初から平城京よりも規模はやや大きく、あの〝大和三山〟をも包摂する規模であったことになる。まさしく、中央集権国家の確立にふさわしい都城だったと言えるだろう。

藤原京復元模型

藤原京復元模型(橿原市藤原京資料室作製)。中央部後方の北に耳成山、右の東側に天香久山を配する。畝傍山は写真からははずれているが、天香具山のほぼ真西に位置する。

そして、地図的には(地勢的ということではない)、藤原京は、大和朝廷がその大規模都城を建設するに実にふさわしいところだった、と言えるだろう。それは、その地が、彼らの故郷、飛鳥から程近い距離にある場所だったからだ。持統天皇の有名な御製、

春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山

(萬葉集、巻一、二八)

は、標題「藤原の宮に天の下知らしめす天皇の代」の冒頭に掲げられる歌であり、藤原遷都(694年12月)翌年の初夏に詠まれたものと考えた方がわかりやすい。

この歌は、「白妙の衣」が実景であるかどうかはさておき、藤原京内のおそらく大極殿あたりからの香具山の情景を詠んだと想定するのが自然だが、まるで自らをすっぽりと包みこんでくれているかのような安堵感と懐かしさに溢れている。この安らかさは、そこが、彼らの「ふるさと」でもあるという、飛鳥との一体感からからもたらされたものであることは間違いのないことであった。

天香具山

藤原京大極殿跡から、雨に煙る天香具山を望む。少しの雨でも水が浮いている。

しかし、その新しい「宮」=「藤原京」が、彼らの故郷「飛鳥」から程近い距離であったということが、逆に、都城としては裏目となったのではなかったか。つまり、何も、無理をして慣れない都城で生活しなくとも、自宅(飛鳥)から通勤できるのなら、その方がいいに決まっているからである。藤原京は、大和朝廷を構成する貴族たちには、不人気であったと思われる。

加えて、実際の藤原京は、地勢が悪かった。「天子南面」の思想があるが、天皇の立つところ(大極殿)が、南面よりも低地にあったのである。つまり、天皇が立つところが、一般臣下たちの地点より低い地点であったわけで、建物を高くしたところで、臣下たちの生活排水が天皇の建物近くに流れ込んでくるという最悪の状況に変わりはなかったであろう。

 

藤原京の排水装置(下水)は、「飛鳥川」が担った。「飛鳥川」は、飛鳥の南後背の高取山北東麓を源流とし、飛鳥を抜けて藤原京を斜めに北に流れる。小さな川であり、たびたび氾濫したようだが(古今集歌)、溢れた水は、ちょうど大極殿あたりに滞留したのではないか。今でも、大極殿跡あたりは、少しの雨でも水が溜まるのである。このことに私が気付いたのは、偶然にも、何度目かに大極殿跡を訪れた、早春のある雨の日のことであった。足下を気にしながら、藤原棄都の真相は、存外、こんなところかもしれない、と思ったら、古代飛鳥人たちのおおようさとでもいうような愛敬を感じ、突然、無性にこの時代が懐かしくなったことを、今でもはっきりと覚えている。

飛鳥川

飛鳥川。「世の中は 何か常なる 飛鳥川 昨日の淵ぞ 今日は瀬となる」(古今集)

藤原京はもたなかったが、次の平城京(710~784)はかなりもった。これら我が国最初の大都市は、ほとんど人工的に形成された。今日に至るまでの、我が国に様々なかたちで存在する都市問題とは、実は、その源泉としては、藤原京、平城京の有する都市問題が指摘できるのではないか。「日本都市史」なる研究テーマが成立するとすれば、これはまたこれで、おもしろい。