河地修ホームページ Kawaji Osamu
http://www.o-kawaji.info/

王朝文学文化研究会 


文学文化舎


講義余話

古代日本中央集権国家のこと(3)―大津宮址にて、安定と平和、そして文学文化―

 

大和朝廷が大津に遷都したのは、西暦667年のことであった。実行したのは皇太子の中大兄皇子である。皇太子とはいえ、母にあたる斉明天皇の崩御(661)後、天皇位は空位のままであったから、実質的には、彼が最高権力者であった。中大兄皇子の即位は、遷都の翌年の668年のことである。

 

大津宮遷都については、後の長岡京遷都(784)の時と同様、人々は大和の地から離れることが辛かったようである。

たとえば、次の『万葉集』「巻一」の長歌は、大和を去りいよいよ「三輪山」が見えなくなるという時の惜別の思いを、おそらくは天皇に代わって、額田王がうたいあげたものと思われるが、そこには、あたかも生まれ故郷を追われゆくかのような大和の人々の姿が、一枚の印象画のごとく、鮮烈に刻印されている。

 

うまさけ 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山のまに い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(さ)けむ山を 心なく 雲の隠さふべしや

―『萬葉集』「巻一」―

しかし、苦しくとも、人々に嫌がられても、遷都せねばならぬ事情が、この時の政権にはあったのである。

 

大津宮時代は短い(667~672)。しかし、この国に於ける初めての中央集権国家の始発という意味で、その歴史的意義は重いものがある。

 

中大兄皇子を輔けたのは、弟の大海人皇子と臣下の中臣鎌足(後の藤原鎌足)であった。 彼らがやったことは、史上よく知られている。いわゆる「大化の改新(乙巳の変)」(645)と呼ばれるもので、早く言えば、天皇家をも凌ぐ権力を持っていた豪族(蘇我氏)を倒したことであった。血生臭いクーデター(宮中内でのテロに呼ぶにふさわしい)であったが、このことにより、天皇が諸豪族を統(す)べるという、天皇を核とする中央集権国家体制が始まった。そういう意味では、その構図は、明治維新とよく似ている。

 

たとえば、戸籍と法に基づく統治が必要であった。全国規模の戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)を整備し、法令(近江令―その実体はわからないが、当然次の律令に受け継がれていった)の編纂作業に着手したのも、基本的に国家が必要とする事業であった。

軍の体制も、それぞれの諸豪族に所属した「私軍」から、政府直属の「中央軍」へと移行しなければならなかった。ただ、大津宮の規模からして大規模な政府軍の常備編成は難しかったのではないかと思われ、このあたりの事情が、後の壬申の乱に微妙な影響を与えたものと思われる。

 

ともかく、大津宮での政権は安定した。内政的に言えば、「東国経営」(聞こえはいいが、東国への侵攻にほかならない)による財政の裏付けがあった。なにしろ、今まで税収のなかった地域から、それこそ“濡れ手に粟”のように税を集めたのであるから、中央政府としては、これほど旨味のある話(政策)はなかった。

この東国諸国から税を運ぶ「道」が、具体的に言えば「東国三道(東海道・東山道・北陸道)」であり、その集結地が「琵琶湖」、そして最大の港「大津」だったのである。

琵琶湖西岸

「大津」より琵琶湖西岸を望む

さらに言えば、大和朝廷を支えてきた古くからの諸豪族は、彼らの拠点である大和から引き離されたことで、政権と対抗するだけの勢力を維持することができなくなった。まさに、「大津」という地の利を利用した中央集権国家の始発であった。

そして、外交面では、白村江大敗(663)後の、唐・白羅連合軍の来襲という恐怖からの解放があったであろう。国際的に言えば、大津宮への遷都は、二度と朝鮮半島には出兵せぬという国際社会に対する意思表示ではなかったかと思われもするが、確証はない―ただ、大津への遷都はその来襲への恐怖と警戒があったとする考え方が一般的ではある。

ともかく、遷都後、政権担当者たちの心にも、ずいぶんと余裕が生まれたのでないかと思われる。

 

たとえば、大津宮遷都の翌年(668)、額田王と大海人皇子との間で、次のようなうたのやりとりがあったことを、『萬葉集』「巻一」が載せている。

  天皇の蒲生野に遊猟したまひし時に額田王の作りし歌
あかねさす 紫野(むらさきの)ゆき 標野(しめの)ゆき 野守は見ずや 君が袖振る
  皇太子の答へし御うた
紫の にほへる妹(いも)を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも

『萬葉』「巻一」の成立は、その内部徴証からして、平城京遷都直後の頃と断定していいが、この額田王と大海人皇子のうたは、「巻一」の中の「近江大津宮に宇(あめのした)御(をさ)めたまひし天皇(すめらみこと)の代)」(天智天皇の御代)のうたとして収載されている。この時期を代表する歌人のひとりが、「額田王」であった。

 

この時の天智天皇の遊猟は『日本書紀』にも記載がある。それによれば、天智天皇7年(668)の5月5日、琵琶湖の東南、「蒲生野(かまふの)」(琵琶湖の東岸を流れる愛知川(えちがわ)中流左岸の台地)に、天智を始めとして、「大皇弟」(大海人皇子)、「諸王」、「内臣」(中臣鎌足)ほか、「群臣」が「縦猟」したとある。「遊猟」「縦猟」ともに「狩」のことであるが、この場合は、薬草を採集する5月5日の、いわゆる「薬猟(くすりがり)」であったと思われる。

新日本古典文学大系の「脚注」は、「野外の華やかな行楽行事だったであろう」とするが、いかにも「野遊び」における古代の人々の伸び放たれたような趣が伝わってくる行事ではある。

 

両者のうたからするに、額田王の前夫であった大海人皇子が、紫草を刈っている額田王に「袖」を振ったのである(額田王は、この時は天智天皇の「室」として召されていた)。

むろん「袖を振る」行為は、愛情表現である。つまり、大海人皇子が、かつての妻の額田王に「袖を振っ」たものだから、「野守は見ずや」―野守(野の番人)が見るではありませんか、と額田王がたしなめたものの、大海人皇子は、「人妻ゆゑに我恋ひめやも」―人妻であっても、恋さずにいられようか、と応酬したのである。

 

このやりとりは、実に屈託がない。むろん「相聞」だが、あまりにも屈託がなさすぎるため、注釈書によっては、公宴での座興のようなものという見方もあるほどである。

今は人妻(天智天皇の室)となっているかつての妻に「袖を振る」大海人皇子、「野守は見ずや」とうたを詠ってたしなめる額田王、さらに、人妻(天皇妃である)となったあなたを憎むどころか愛さずにはいられないのだ、とうたで返す大海人皇子―これらのやりとりには、古代人のおおらかでゆたかな情感の起伏が、まさに悠然と流れていることを感ぜずにはいられない。

 

平和と政治の安定による心の余裕がなければ、このようなうたのやりとりは生まれまい。大和朝廷の一つの政治的達成が作らしめた、まさにゆたかな日本文学文化の収穫であった。

大津宮址

大津宮址にて。
「さざなみの志賀の都」は、今、近くの子供たちの恰好の遊び場となっている。