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王朝文学文化研究会 


文学文化舎


講義余話

湖西と渡来人、そして司馬遼太郎『街道をゆく』

 

「国家」となる前の、遥か古代の日本列島が、今日からは想像もできないほどのグローバル社会の中にあったことは、間違いのないことである。それは、主として「東アジア文化圏」というグローバル社会ではあったが、しかし、その社会は、少なくとも、人々が自由に行き来できた、という点に置いて、間違いなく究極のグローバル社会であった。

 

東アジア圏に於けるこの列島への移動ルートは、ほとんどが朝鮮半島を経由するというものであったろう。朝鮮半島の南端から対馬、壱岐とたどれば、もうそのすぐ先は北部九州であった。朝鮮半島からの渡来人は、古来、どれほどの数に昇ったかわからないが、たとえば、ついにこの国独自の文字が成立しない要因となる程の数であった、ということだけは言えるだろう。

 

今日の日本語表記法である"漢字仮名混じり文"の成立は、形に残るものとしては、10世紀初頭(905年)の『古今和歌集』「仮名序」(紀貫之)ということになるが、それまでの表記は、基本的に中国、朝鮮半島の文字とその表記法である"漢字漢文"であった。やがて仮名書きが主流にはなっていくが(公文書は長く漢文であった)、その「仮名」は、漢字を崩したり、部分的な「画」(かく)を用いたりしてできたのであるから、漢字が我が国にもたらされてから今日まで、漢字でモノを書くという文化は、基本的に変わっていないということになる。堂々たる漢字文化圏の民族国家ということになろう。

 

ところで、渡来人の痕跡は、なかなかわかりにくい。古くなればなるほど、この列島各地に溶け込んでしまっていると考えざるを得ないから、その姿を明確には捉えにくいのである。常識的に考えるならば、朝鮮半島から近い西日本こそ、渡来人の痕跡が豊富にありそうなものであるが、今日ではほとんどが消えた。

「湖西(こせい)」という言葉を知ったのはいつごろのことであったろうか。随分と昔のことだが、琵琶湖の西岸に国鉄(当時)の路線(湖西線)が開業したというニュースが流れて、私は、そこが日本列島のほぼ中央に位置しながら今頃鉄路を敷くとは随分と遅れている地域だなあ、という率直な印象を持った記憶がある。

 

湖西線の開業は、昭和49年(1974)のことであった。新幹線や高速道路など列島の大動脈が走る「湖東」とは対照的に、「湖西」は近代化から外れたのである。

 

しかし、逆の見方から言えば、「湖西」地域が、近現代の乱開発から免れたということが、結果的に古代からの数多くの遺跡を守ることになった。すなわち、朝鮮半島からの渡来人たちの明確な痕跡としての遺跡である。

 

「湖西」が朝鮮半島からの渡来人たちの遺跡の宝庫であることを教えてくれたのは、司馬遼太郎であった。

 

昭和46年(1971)1月1日、司馬遼太郎は、後年その代表作となる『街道をゆく』の連載を『週刊朝日』誌上で開始した。その第1回目の旅の舞台が、「湖西」であった。司馬は、連載第2回目「湖西の安曇人(あずみびと)」において、このシリーズのテーマについて明快に述べるに至るのだが、その冒頭には、「日本民族はどこからきたのであろう」という独白に近い一文が置かれている。

 

この場合、司馬は、「日本民族の祖形」というものを求めたかに見える。「この列島の谷間でボウフラのように湧いて出たのではあるまい」という、後に続く一文から考えれば、司馬の思念の中には、日本人の祖形として、「渡来人」というものを抜きにしては考えられないという認識があったことは間違いがないところである。「渡来人」は、そのほとんどが朝鮮半島からやってきたのであり、司馬は、その明瞭な痕跡として、湖西に集中する古代朝鮮式古墳群に注目したのであった(楽浪の志賀)。

  司馬遼太郎「街道をゆく」連載第1回

司馬遼太郎「街道をゆく」連載第1回
「楽浪(さざなみ)の志賀」
  『週刊朝日』昭和46年(1971)1月1日号。  

 
 

たとえば、朴鐘鳴(パク・チョンミョン)氏によれば、湖西の大友郷には、「四百数十基の古墳が「群」をなして」展開し、その中からは、朝鮮半島の冬の生活文化そのものである「オンドル」の遺構も見つかっているという(『週刊 街道をゆく 湖西のみち 近江散歩』 朝日新聞社)。

 

朝鮮半島から比べれば、幾分冬の寒さは凌ぎやすかったかと思われるが、しかし、渡来人たちは、元の根ざしを忘れることはできなかったのであろう。人間の暮らしの蓄積と習慣から生まれてくるものが様式(生活スタイル)というものであり、それが"文化"というものである以上、人々はそれに無上の温かさと懐かしさを抱かざるを得ない。"文化"とはそういう性質のものである。

 

ある時、大津市内の国道1号線を、京都方面に向かって車を走らせていたところ、「渡来人歴史館」(大津市梅林2-4-6 http://t-rekisikan.com/index.html)という建物が目に入った。すぐに訪れ、受付でささやかな入館料を払うと、あとはご自由にどうぞ、という感じで、さっそく見せていただいた。

 

主要な展示は、「日本と朝鮮半島のつながり」をテーマとするもので、「近江と渡来人」に始まり、近代以降の「日朝関係」も当然スポットを当てているが、その強い主張は、「正確で客観的な東アジア関係史の学習」を求めている。まったくそのとおりであって、この国の文化の根源ともなった「稲作農耕」から、土木、養蚕、漢字、仏教等、多様な文化や技術にいたるまで、いかに、渡来人たちの果たした役割が大きかったことか、我々は、古代日本と朝鮮半島との関係について、正しく、その歴史的事実を知らねばならない。

 

思えば、今まで学校教育で、「この国」の始源を説明するにあたって、古代朝鮮半島からの「渡来人たち」の力が大きく働いたということを述べる教師は、はたしてどれだけいたであろうか―。

 

司馬遼太郎が言うとおり、少なくとも、可視的な次元において、「湖西」の遺跡群は、雄弁にそのことを述べている。そこに明確に見える以上、我々は、けっしてそれらから目を逸らしてはならないのである。