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王朝文学文化研究会 


文学文化舎


講義余話

古代日本中央集権国家のこと(1)-「大化の改新」-

幕末から明治にかけて、この国は、外国からの圧力を契機として、やがて中央集権国家の誕生という激動するダイナミズムを味わうことになった。むろん、外国からの圧力とは、その筆頭が黒船の来航に象徴される諸外国からの開国要求であり、その根底はビジネスであった。当時の日本はと言えば、ムラの集合体のようなもので、江戸や上方(京・大坂)を除けば、この列島のどこに商ビジネスの可能性があったのかと不思議に思われもするが、燃料や飲料、貿易ルートの確保など、諸外国の思惑は様々であったのだろう。が、ともかく、外国からの圧力という途方もない刺激痛から、ついにこの国は、再び中央集権の国家を作り上げるに到った、とだけは言える。


江戸時代の幕藩体制とは、「藩」という半ば独立する「小国家」のゆるやかな連合体であって、そのなかの徳川家が、その圧倒的な「力」で「幕府」を構成し、諸藩を統括していたに過ぎなかった。諸藩は、反抗すれば「やられる」から黙っていただけのことで、徳川家の権力がストレートに全国諸藩にまで行き渡っていたわけではない。たとえば、長州藩の領民によって得られる生産が、直接幕府の食料庫を潤すわけではなかったし、領民の崇敬する対象が藩主であったとしても、徳川家の将軍であるはずもなかった。

軍も、基本的には、藩単位の軍隊であった。幕府軍と言っても、それは親徳川の連合軍と言うほうが厳密には正しくて、徳川家そのものの軍が幕府軍ということではなかった。当時、この国の統一された軍隊組織というものはなかったのであり、それは、明治維新政府の下で、大村益次郎が創設した、いわゆる維新政府軍がその嚆矢となったのである。各藩に所属する軍は、国家直属の軍を「国軍」と称するならば、まさに「私軍」としか言いようがなかったのである。

 

この稿の主題は幕末の日本ではない。だが、幕末から明治維新にかけてのこの国の歴史は、古代中央集権国家の確立過程に、似ていると言えなくもない。

 

この国の中央集権国家の開始については諸説あるが、やはり、西暦645年の「乙巳の変(いっしのへ ん)」に始まる、いわゆる「大化の改新」をもってその時と考えるべきだろう。乙巳の変は、中大兄皇子と中臣鎌足が中心となって、当時最大の豪族であった蘇 我氏の蝦夷、入鹿親子を倒したクーデターと言うべき事件だが、このことによって、名実ともに天皇家藤原氏連合政権が、国家的規模において樹立された。以 後、微妙な変遷はあるものの、平安末期までは、藤原氏が天皇家を支えて政権の実権を握っていくという構図が続くのである。


大化の改新当時、すなわち600年代の前半、蘇我氏の権勢は絶対的なものがあった。蘇我馬子、蝦夷、入鹿三代に渡る専横ぶりを後の史書が強調するのも、言いかえれば、それだけ蘇我氏の力が強大だったということなのであり、それに対して、天皇家や藤原氏(当時は中臣氏)には、蘇我氏に対抗するだけの経済力や軍事力がなかったとも言える。

この当時の財力や軍事力は、とにもかくにも「人の数」であった。そして、その「人の数」は、多くの直轄の田畑を持つことにより保持されるのであり、当時の 天皇家や中臣氏には、これらのことにおいて、蘇我氏を凌ぐことはできなかったのであろう。蘇我氏(蝦夷、入鹿親子だが)の論理に、自分たちが天皇家に取って替わるという意思があったのかどうかはわからないが、少なくとも、当時の天皇家の未来を担う若者たち-中大兄皇子・大海人皇子、そして彼らを支える中臣 鎌足-は、その一点に大きな危機感を抱いたのではないか。

当時、力では、蘇我氏のそれは他を圧するものがあった。その蘇我氏を正面から追い落とすことなどむろん無理であったわけで、だからこそ、この時の若者たちは、非常手段に打って出たのである。およそ、宮中内で、時の最高権力者を刺し殺すなど、尋常のことではない。

入鹿首塚の写真

蘇我入鹿の首塚。
中大兄皇子らに殺された後、入鹿の首がこの地点まで飛んで来たという。
飛鳥寺の裏手に位置する。
この後方に、飛鳥宮があった。

しかし、この蘇我氏を倒すことで、大和朝廷の権力は、ともかく、天皇家を中心とする政府に一本化されたかにみ える。政府は、唐の制度に倣いつつ「戸籍の整備」「公地公民の制」「班田収受の法」等を、矢継ぎ早に実施するに至るのだが、このことは、諸豪族の所有する 田畑を取り上げ、政府が直轄することで初めて成り立つ施策であった。つまり、簡単に言えば、土地の強制国有ということであり―明治維新とはこの点が大きく異なるのだが―、その土地から獲得されるものは、基本的に国庫に納める「租税」に他ならなかった。
このようなことは、政府に強力な権力と軍事力とがなければ、とうてい維持できるものではなかったであろう。大和朝廷を支える諸豪族の反発は必至であったはずで、クーデター直後の大化元年(645)12月、政権が、一時期、大阪難波宮に遷都したのも、大和王権を構成する諸豪族の反発を恐れたため、と思えなくもない―あるいは、宗家筋であった百済の支援を求めたものか―。ともかく、当時の新政権は、権力の沈滞やその兆候でさえ、即その瓦解に結びつく恐れがあったのである。

 

そして、その危惧は現実のものとなった。国際情勢の緊迫である。すなわち、600年代中盤から始まる唐の朝鮮半島への度重なる出兵、その結果、百済の滅亡(660)、その百済再建のために日本(当時は倭国か)が大規模な水軍を派遣したものの、「白村江」において唐・新羅連合軍に壊滅的敗北(663)を蒙ったこと、さらに、高句麗の滅亡(668)などであった。

強大な唐帝国の存在と圧力、さらに朝鮮半島の政情不安は、今の我々からは想像することもできないほど、この国の人々に深刻な危機感を抱かせたのではなかったか。

 

結果、大和朝廷は、驚くべき行動に打って出た。琵琶湖畔、大津への中央政府の移転、すなわち、大津宮遷都(667)であった。

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