河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第2回
『伊勢物語』の成立を考える(一)
『源氏物語』「絵合」巻をめぐって―『宇津保』と『竹取』―

『宇津保』が当世風で新しいというのは、その作品世界の内容よりも、外観も含めた総合的な印象をいうのだと思われる。「俊蔭」巻は、主人公の俊蔭が遣唐使 船で難破の末に波斯国に漂着、その後23年を経て帰国するという物語であり、史実に照らしても、遣唐使が最後に派遣されたのが承和5年(838)のことであるから、物語の中身からすれば、『源氏物語』の「絵合」巻の時点(950年ごろの時代設定)から見て決して新しい時代のことではない。この場合の『宇津 保』の新しさとは、やはりその制作の時点に関する印象なのである。それは、たとえば、「絵は常則、手は道風なれば、」という言葉から伺うことが出来る。

常則とは、飛鳥部常則、平安時代中期の絵師であるが、正確な生没年は分からない。しかし、常則は、天暦八年(954)に左衛門少志として出仕し、村上天皇 自筆の金字法華経の表紙絵を描いたことや、康保元年(964)に清涼殿の鬼の間に白沢王が鬼を追い払う壁画を書いたことなどが知られている。つまり、900年代中ごろに活躍した実在の絵師なのである。また、道風とは、著名な小野道風(894-966)、これまた平安中期の書家で、三蹟の一人であること はよく知られている。「絵合」巻の時点を「現代」とすれば、まさに、常則、道風こそ、「現代」に活躍する絵師、書家なのであった。この時の『宇津保』が、『宇津保』そのもの、すなわちオリジナル原本であるかどうかは措くとしても、見方としては、『宇津保』は、この時代に成立したものと考えて差し支えないだろう。すなわち、藤原権中納言方は、「そのころ世にめづらしく、をかしき限り」―新作の物語―を制作し提供したという「絵合」巻の設定と正しく照応する設 定だと言っていいのである。

一方、対する光源氏方の『竹取物語』については、「絵は巨勢の相覧、手は紀貫之書けり」とある。巨勢相覧は大和絵の創始者である巨勢金岡の子と言われている。金岡の子ということになれば、ほぼ醍醐天皇の頃の絵師と断定することができよう。そして、紀貫之については、触れるまでもない。

このように、源氏方が提供した『竹取物語』の制作時期は、権大納言方が提供した『宇津保』よりも、およそ半世紀以上過去に遡る時間設定であることがわかるのである。物語は、当然のことであるが、その表記は仮名であり、またその絵は大和絵であった。これらの成立はどう古く遡っても、800年代の後半から末に掛けてのこととしなくてはならない。この「絵合」巻の『竹取物語』がオリジナル原本ではないにしても、紀貫之の時代にはすでに成立していた。また、それ以前だとしても、作品成立の下限は9世紀の後半から末頃ということになるであろう。まさに「物語の出来始めの祖」と言うにふさわしい印象と言っていい。これまた、光源氏方は、「いにしへの物語、名高くゆゑある限り」―古典の物語―を提供したとあることに正しく照応しているのである。


2010.1.14 河地修

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