河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第18回
物語の冒頭を考える(一)
「初段」について(三)


「垣間見」直後の「求婚」をめぐって

言うまでもなく、恋物語には男女両主人公が登場する。その主人公は、他を圧倒する技量と資質とが付与されていなければならず、ありていに言えば、現実世界にはいない、理想的、かつ、ほとんど超人的「男」であり「女」でなければならなかった。

そのうちの男性主人公が、折口信夫が言うところの「いろごのみ」であって、古代の神々の世界にしか存在しない英雄でもあった。その典型的人物が、王朝物語文芸の世界に新しく蘇った「光源氏」であることは言うまでもない。

 

『伊勢物語』「初段」の主人公も、実は、そういう主人公として登場している。しかも、元服したばかりの「初々しい」少年の主人公としての登場なのだが、この主人公像の造型について、もう少し精密に考えてみたいと思う。

 

この問題については、すでに別稿(『伊勢物語論集ー成立論・作品論ー』竹林舎)でも論じているので参照されたいが、ここでは、男性主人公が「なまめいたる女はらから」を「垣間見」るというところから物語が展開することに注目したいのである。

 

「いろごのみ」は「垣間見」をする。「いろごのみ」とは、むろん狭義の「色好み(とりわけ異性を好む人物)」でもあるから、彼は、当然「好色」であって、すなわち、女を「垣間見」するのである。「垣間見」とは、今言う「のぞき」であるから、それが物語の主人公にどう関わってくるのかということが問題となる。

繰り返すが、主人公は好色でもあるから、その結果、ただの「のぞき」もやるのである。しかし、こういった物語の主人公は、ただの「のぞき」では終わらないということになる。

 

初段の場合、「垣間見」の相手は「なまめいたる女はらから」である。この女性主人公の造型については、後に触れるが、今まず問題としたいのは、垣間見をした直後の男の行動についてである。

物語本文は次のように言う。

この男、垣間見てけり。おもほえず、ふるさとに、いとはしたなくてありければ、ここちまどひにけり。男の着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。その男、信夫摺の狩衣をなむ着たりける。
 春日野の 若紫の 摺り衣 しのぶの乱れ 限り知られず
となむ、おいつきて言ひやりける

「ここちまどひにけり」とは、垣間見直後の男の心情であって、「まどふ」とは、ほとんど惑乱と言うに近い。その惑乱の原因として「ふるさとにいとはしたなくてありければ」と語るのだが、このことについては、女性主人公の造型のくだりで検証することになろう。ともかく、男は、「ここちまどふ」という心情に陥りながらも、次の行動に走ることになる。

 

それはまず、「男の着たりける狩衣の裾」を「切」るという尋常ならざる行為ということであった。裾を切るといっても、反物をざくざくとハサミで切り取るというようなことではなく、狩衣の一部として縫いつけてある裾をはずし取るということであろうが、それにしても、縫いつけてある裾を取りはずし、それにうたを直接書き付けて相手に送るという行為は、けっして日常的な行為であろうはずがない。鷹狩であったとしても、男性貴族なら、「懐紙」ぐらいは携帯しているはずで、なぜ「狩衣の裾」に書き付けなければならなかったのか、ということが問われなくてはならないのである。

 

実は、その問いの解答は、男の詠じた歌の内容にあった。それは、「春日野の若紫の摺り衣しのぶの乱れ~」と続く「摺り衣」と「しのぶの乱れ」という語詞である。

この場合の「摺り衣」とは、男の着ている「信夫摺の狩衣」を指している。この「信夫摺」については、すでに江戸時代から正解が導かれており、すなわち、契沖『勢語臆断』に「信夫ノ郡より、むかし摺りて出したる名物也」とあるように、陸奥「信夫郡」(現福島市にある信夫山付近)の名産であった。そして、その文様の特色については、古く「顕昭」の『古今集』の注に、「髪を乱したるやうに摺りたる」とあり、一言で言えば、「乱れ模様」というものであった。

 

男は、自分の「ここちまどひ」を「しのぶの乱れかぎり知られず」と詠み、かつ、それを、切り取った乱れ模様の「信夫摺の狩衣」の上に書き付けたのだ。

おのれの心情を、とっさに五七五七七の歌に表出するだけでなく、それを「信夫摺」の「乱れ模様」として表象化してみせたところに、この「初冠」の主人公の、超人的スター性を読み取らねばならないのである。

この男の一連の行動こそが、物語の末尾の解説「昔人はかくいちはやきみやびをなむしける」として称賛されることになった、と諸注は説くのである。

 

この男の行為であるが、男が自分の心情をとっさに歌に詠み、その心情にふさわしい「信夫摺りの乱れ模様」の「狩衣」に書き付けたのは、ずいぶん洗練された洒落た行為として評価されるであろう。しかも、「初冠」の男なのである。元服直後の(ということは大人になったばかりの)男の行為としては、たしかに、超人的スター性を持ち併せていると言っていいだろう。

しかし、その前に、それらの前提となる男の行為そのものについて、少しく検証してみなくてはなるまい。そもそも「垣間見」とは思いがけない遭遇であるのだから、初段の男は、女との遭遇直後に、求愛の行動に走ったことになる(その意味では「おひつきて」の解釈は、「老いつぐ」よりも「追ひつぐ」のほうがこの場面にはふさわしいように思われる)。むろん、こういうストレートな求愛は、そのまま「求婚」ということにほかならない。実は、今、このことが問題となるのである。

 

物語というエンターテイメントの世界において、主人公の男が、垣間見直後にその相手に求婚することの是非を論じて何になる、という向きもあるかもわからない。しかし、古典といえども、現実の人間社会の構造から生まれている。古典に書かれていることを、少々の無理があっても、あるいは無理とも気付かずに、昔の世界とはそういうものなのだ、というようなことで、それを当たり前のものとして読んでしまうこと、すなわち、古典の世界を特別の世界として受け入れてしまうところに、後代の読者の、ある意味では最大の陥井があるのではないかとも思われる。なぜなら、古今東西、人間の文化の本質など、そう大きく変わるものではないからである。

 

つまり、この男の行為、すなわち、垣間見直後の求婚は、ごく常識的に考えれば、きわめて非常識な行為ではないか、ということなのである。垣間見をしたとしても、すなわち女に一目惚れをしたとしても、その後の求婚に至るまでのプロセスは、当たり前のことだが、それなりの手続きというものが必要となる。

 

たとえば、この『伊勢物語』「初段」を下敷きにして制作された『源氏物語』「若紫」巻をみてみよう。

今問題とすべきは「北山」の場面である。「十ばかりにやあらむ」少女を垣間見した後、光源氏は、きわめて迅速な行動を取っている。偶然が重なった結果ではあるが、垣間見の後、少女の滞在する「僧都の坊」に招かれることとなって、少女の素性(藤壺の姪)を知った源氏は、少女の祖母(尼君)の兄である僧都に「をさなき御後見におぼすべく聞こえたまひてむや」と、尼君への取り次ぎを請い、求婚の意志をもらすのである。

 

この場合、光源氏の行動は、ある意味ではきちんとしている。すなわち、垣間見した少女の美しさに涙を流しながらも、そのまま直後に求愛するという行動は取らなかった。いったん宿所に戻り、あらためてその坊に招かれたところで少女の素性を知り、ともかく、手続きとしては、僧都に対して、尼君への仲介を願うのである。だから、そういうところでは、伊勢の「初段」の男とは違う、と言えなくもない。

しかし、源氏は、その夜、ついに気持ちを抑えることができず、和歌を詠み入れた。

初草の 若葉のうへを 見つるより 旅寝の袖も 露ぞかわかぬ

歌意は明快である。少女を見てからというものは、恋しさに涙が止まらない、というもので、明らかに求愛であり、僧都への申し入れからも明らかなように、これは、求婚なのである。

つまり、きちんとしているとは言っても、結局はその日のうちに求婚したという行為は、伊勢の主人公と比較して、五十歩百歩、と言えなくもない。

 

その光源氏の求婚に対して、むろん、保護者である祖母の尼君は断った。当たり前であろう。まだ幼い紫の上である。それゆえ、結婚には適さないことを述べるのだが、しかし、それと同時に、光源氏の強引さ(非常識と言っていい)にも呆れていよう。

とうてい源氏の求婚は受け入れられるはずもなく、紫の上を二条院に引き取るには、保護者である祖母、尼君の死去を待たなければならなかった。

 

源氏の求婚は、確かに強引ではあったが、しかし、それなりの必然性はあったと考えるべきであろう。それは、偶然にも少女のいる坊に招待され、そこで一夜を明かすことになった、という設定である。昼間偶然垣間見をした当のの少女と同じ屋根の下で休んでいる、そう考えるだけで、源氏の心中は平常心を失ったに違いない。そういう必然性の中での、源氏の求婚、と考えるべきなのである。

作者としては、物語世界を、なんとかリアリティーの世界に踏み留めた、とは言えるのではないか。源氏の行為は、許されるぎりぎりの「非常識」と言ってもいい。物語的設定という観点からすれば、作者は、なんとか手を打ったのである。

 

しかし、許されるにしろ、許されないにしろ、あるいは、程度の差こそあれ、源氏の行為は、現実の社会においては、やはり「非常識」な行為とは言えるであろう。

貴族社会における結婚は、当然のことながら、そこには「家」が関わってくる。「家」としての「意志」を無視した結婚の申し入れなど、事情はどうであれ、無礼を通り越した「非常識」であった。だからこそ、作者は、その後の展開において、そういう「非常識」がやむを得ないことなのだ、という状況を丁寧に作り上げていくのである。

 

今、源氏の「若紫」の物語は措くことにしよう。伊勢の「初段」の男の場合はどうなのか。作者はこの「非常識」について、どのように物語的に処理しているのであろうか。あるいは、していないのか、という問いかけも求められるのではないか。

 

なぜ、この両物語の主人公には、こういった非常識な行為が許されるのか。それは、かれらの人物造型には、古代の英雄像が重ね合わせられているからではないかと思われる。

伊勢と源氏はの両主人公は、古代の英雄(いろごのみ)の再生というモチーフのもとで、その人物造型がなされているのだ。

 

この稿続く

 

2012.9.30 河地修

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