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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第21回
「なまめいたる女はらから」考(二)

 

「宇治」に棲む「女はらから」

ところで、『源氏』の作者紫式部は、新しい物語(宇治十帖)のヒロイン「女はらから」を平安京の南郊「宇治」に登場させた。これは、この物語の舞台が、それまでとは異なり、基本的に「都」を離れたということであったが、これもまた『伊勢物語』「初段」の舞台設定(奈良)のアレンジであったことは間違いない。

「宇治」の地は、平安京に住む王朝貴族たちにとっては水辺の「別業(べつぎょう)」の地であった。いわば、"持てる"階層の"富"の象徴のような土地でもあった(喜撰法師の「世を宇治山」のイメージだけの土地ではない)。現在の平等院も、もとは左大臣源融が別院として過ごす「別業」であったわけで、宇治川に面し、夏季の避暑の拠点としての機能を担っていたと推定される。

しかし、避暑地に共通して言えることは、夏の時季は賑わうものの、その時季以外は寂しい土地であったということである。

紫式部は、こうした"別業"の地が持つ"背反的二面性"に着目したかと思われる。

「宇治十帖」のヒロインが住む宇治川畔の「八の宮邸」について考えてみよう。実は、「宇治十帖」が開始される「橋姫」巻頭は、『伊勢物語』の「初段」のように、いきなり男性主人公(薫)の「垣間見」が語られるわけではない。それは、ヒロインである「女はらから(姉妹)」の「家」の没落の話から開始されるのである。すなわち、姫君たちの父親「八の宮」の没落話であった。

 

「八の宮」は、系譜から言えば、桐壺帝の八番目の皇子にあたる人物である。すなわち、光源氏のかなり下の弟(源氏は今風に言えば桐壺帝の次男)であった。ただ源氏と違って「宮(親王)」であったから、ともかく皇位継承権があった。このことが、結果的に、彼を不幸にした。

「橋姫」の巻頭で初めて明らかにされることだが、八の宮は、源氏の須磨流謫時代に、弘徽殿方から次期皇太子として担がれた親王であった。つまり、時の皇太子冷泉の廃太子を既定方針とする弘徽殿方の戦略に利用されたのである。

常識的に考えればわかることだが、天皇の"八番目"の「皇子」の場合、「宮」になった(親王宣下)としても、皇位継承の可能性など、ほとんどないに等しかった。この時の皇太子、冷泉は、桐壺帝の"十番目"の皇子(十の宮)ではあったが、母が中宮藤壺、そして、後見には兄(本当は父親であるが)の源氏が当たっていたのであり、そして何よりも、譲位はしたものの、父桐壺院の確固とした絶対的後見に支えられていた。

だから、たとえ弘徽殿女御所生の朱雀が即位したとは言え、それまでのパワーバランスは、強固に守られていたということになる。しかし、桐壺院崩御によって、そのパワーバランスが崩れた。結果として、源氏方は、弘徽殿方に圧倒され、源氏の須磨流謫、冷泉の廃太子、八の宮立坊、といったシナリオが描かれたのである。

時の動きに敏感に反応する貴族社会は、当然次期皇太子(ということは次の次の天皇)の八の宮を意識することになったであろう。弘徽殿方の傀儡とはいえ、それ相応の手を打つことは必須となったに違いない。

 

このあたりのことについて、物語は詳しいことは書かないが、とにかく、八の宮は、宇治川北岸にある小振りな別荘を所有していたというのである。

この時の宇治の「別業」が、文字通り、八の宮一家が避暑として夏季を過ごすためのものであったのか、あるいは、当時の貴族が、よく長谷寺など奈良方面に行き来するときに使用する"中宿り"として用いられたものであったのか、あるいはまた、将来の布石の一つと考える有力貴族から単に譲り受けただけのものだったのか、それらの事情についても、物語は何も語っているわけではないが、ささやかな別荘とは言え、にわかに皇位継承者として浮上した「八番目の宮」の"持ち物"と言うにふさわしい趣ではあったろう。

 

しかし、周知の通り、光源氏は復権した。この場合、どんなに鈍感な人間であっても、八の宮の置かれた立場であったなら、ほとんど恐怖にも似た絶望的な不安感に駆られたに違いない。

復権した源氏は、やはり、八の宮を許さなかったのであろう。そのことの詳細な事情を、この物語は、むろん語ることはなかったが、事実として、八の宮は没落したのであった。

没落した八の宮は、困窮した。そして、自身の京の邸が火事で焼失したことにより、一家で宇治の別業に籠もる他はなくなった、というのである。

作者は、こうした「別業」の「宇治」に、なかば恒久的に住み続けなくてはならぬ没落皇族「八の宮」の家に焦点を当て、その姫君たち(女はらから)を、新しいヒロインに据えたのである。

 

作者は、もともと皇位継承の可能性などなかったに等しい八番目の「宮」に、突如として立太子―皇位継承という俗界最高の「光」を与えたのである。そして、その「光」は、源氏の復権により、暗転した。

なまじ「光」を見たものにとって、突然の「闇」への暗転はつらい。この先「光」の世界を夢見ることは、二度とあってはならぬ―それが八の宮の"覚悟"の結論であったに違いない。その"覚悟"とともに、二人の姫君の運命が定まったのだった。

 

「ふるさと」に棲む「女はらから」

『伊勢物語』の「初段」は、その舞台については「奈良の京、春日の里」とあるだけである。「春日」という表現からは、「春日野」や「春日大社」、さらには、藤原氏ゆかりの土地というイメージも浮上したかもわからないが、しかし、何よりもこの時代(平安京時代)、ヒロインが「奈良の京」に住んでいることの意味が問われなければならないだろう。

「奈良の京」とは、むろん「平城京」(710~784)を指す。天応元年(781)に即位した桓武天皇は、すでに皇太子時代(773~781)から遷都を計画していたことは間違いなく、延暦3年(784)、奈良を棄て長岡に遷った。ただ、腹心の藤原種継が暗殺された(785年)ことや、早良親王の祟りの問題などもあって、延暦11年(792)には、長岡京からの撤退、葛野(京都盆地)への遷都を決意していたと言われている。

つまり、平城京は、784年に棄都され、さらに、長岡への遷都が失敗に及んでも、再びそこへ"還る"という選択はなされなかった土地であった。つまり、文字どおり「ふるさと」になってしまったのである。

「ふるさと」とは、「古る里」、その語義は、基本的には、古くなったところ、ということであるが、『萬葉集』では、その用例の多くが、「もと都があって栄えたが、今は寂れた土地」すなわち「旧都」ということで用いられている。そして、『古今集』(905年)では、次の平城上皇のうたが代表歌として指摘できるであろう。

ふるさとと なりにし奈良の 都にも 色はかはらず  花は咲きけり(巻二、春下)

「初段」では、この「ふるさと」が用いられた、と考えるべきであろう。物語本文は次のように言う。

思ほえず、ふるさとに、いとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。

「垣間見」をした「男」にとって、「いとなまめいたる女はらから」は、「ふるさと」に「いとはしたなくて」ということであったから、「心地まどひにけり」という状態になった、というのである。

ここで注目すべき言葉は「はしたなし」という形容詞である。『日本国語大辞典』ではこの「初段」の例を掲げて、どっちつかずで、中途ぱんぱなさま、しっくりしない、との解説を加えている。要は、ぴったりとはまらない、釣り合いが取れていない状態や気持ちを表すのである。

「ふるさと」に「はしたなし」という「女はらから」とはどういうことを言うのか。それは、端的に言えば、その土地にいることがまったく予想されていなかった、ということに他ならない。貴族たちがこぞって新都に遷っていき、今はすっかり寂れた旧都「ふるさと」に、このような「なまめいたる」―魅惑的な―姉妹がいることなど、とうてい想定出来なかった、という心情を表しているのである。

なぜ「ふるさと」に「いとなまめいたる女はらから」が想定外の存在となるのか。それは、棄都された「ふるさと」には、上流の貴族階層は、まず残されていないことが当然だからである。

遷都の場合、むろん、都城完成直後、貴族社会は一斉に集団移住するわけではなかったが、移住にあたっては、優先順位があった。すなわち、政権中枢や必要とされる部署を担当するものが優先された。そして、やがては、新都の構成員はそのすべてが移住したはずであったが、しかし、必要とされなかった人々もいたのである。

『日本後紀』の「桓武天皇」の件には、遷都のメンバーから漏れた人々が、盛んに早期移住を朝廷に嘆願している記録が目立っている。つまり、わかりやすく言えば、遷都のメンバーに漏れた人々がいたのであり、彼らこそ"没落貴族"と呼んでいい人々であったに違いない。

「奈良の京、春日の里」に住む「女はらから」は、何らかの事情で新都平安京への移住ができなかった弱小貴族(没落貴族)の美しい姉妹だったのであり、まさに「棲む」というイメージがふさわしいであろう。

初段の主人公は、「男」の家が「奈良の京、春日の里」を領有していた縁で、そこに「棲む」「なまめいたる女はらから」を偶然「垣間見」することを得たのであった。

この場合、物語作者は、「奈良の京」、あるいは「藤原」のイメージにも繋がる「春日」という言葉を紡ぐことで、一瞬、その華やかな彩りを印象付けたかに見えたが、しかし、その直後、「ふるさとに、いとはしたなくてありければ」と続けることで、その華やかな彩り(光)が遠い過去のものであったことを、厳然と知らしめたのであった。

かつての栄光の記憶をとどめながらも、今はその面影もなく荒廃した旧都「ふるさと」に、ひっそりと忘れ去られたように"棲む"「女はらから」―。「新都」に住むことができない何か特別な事情でもあるのであろう。そういうヒロインを、颯爽と救い出だすかのように若き貴公子が現れた。その劇的な出逢いの構図(垣間見)こそが、初段の持つ"ドラマ"としての眼目の一つでもあった。

そして、この構図が、後の『源氏物語』「若紫」巻と「橋姫」巻の二つの「垣間見」の場面に連続し、さらに、重層的に物語化されたのであった。

 

2013.7.3 河地修

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