河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第26回
第二段の主人公―「初段」と「二段」の対照性

 

思いがけず美女を見出す構図

『伊勢物語』は、いわゆる「物語」であって、むろん“エンターテイメント性”に溢れている。つまり、読者(聞き手)を単純に楽しませないといけないから、作者は、まず、そういう“はなし”の提供を優先するのである。

「初段」がエンターテイメントのサービス精神に溢れていることの事例を挙げるとすれば、まず、その登場人物たちである。ヒロインが、平城故京に埋もれて暮らしている「いとなまめいたる女はらから」であること、そして、そのヒロインを偶然「垣間見」し、即座に求愛(求婚)するヒーローが、都から鷹狩りに来た相当身分ある貴公子らしいこと、もうこれだけで、毎日地味で退屈な生活を送っている都の少女たち(物語の享受者である)は夢中になったことであろう。少女たちは、そのヒロインの姿に、自分たちの夢の実現を重ねるからである。

 

「初段」に続く「二段」は、物語の舞台が都(平安京)の「西の京」になっただけで、実は「初段」の基本構造と変わるところはない。当時の「西の京」は、零落した貴族たちが住まざるを得ないような地理的条件を備えた地域であった(池亭記)。従って、そこに住むヒロインは、貧しい階層に属するヒロインであり、その点において、平安京に遷都しながらも、棄都された奈良にそのまま住まざるを得なかった「初段」の「女はらから」と共通の要素を持っている。

つまり、物語のヒロインが、当時としては、思いも掛けないところに住んでいるという構図が共通なのである。実は、この構図こそ、エンターテイメントの恋物語に見られる典型的な型式の一つと言っていい。たとえば、『源氏物語』「帚木」巻の、「雨夜の品定め」の一節が指摘できるであろう。

さて世にありとも人に知られず、さびしくあばれたらむ葎の門に、思ひのほかに、らうたげならむ人の閉ぢられたらむこそ、限りなくめづらしくはおぼえめ。いかではた、かかりけむと、思ふより違へることなむ、あやしく心とまるわざなる。
(そのようにして世に生きているとも人に知られず、淋しく荒れ果てた陋屋(ろうおく)に、思いも掛けず可愛らしい人が閉じ込められているようなのは、この上なく素晴らしいと思われるだろう。どうしてまた、こんな所に、このように美しい人が住んでいるのだろうと、意外に思われるところが、不思議にも心がひきつけられるものなのである。)

このくだりは、光源氏より年上の“馬の頭”が展開する“中流の女”の論の一節なのだが、「さびしくあばれたらむ葎の門に、思ひのほかに、らうたげならむ人」がいる構図は、ある意味、『源氏物語』に多く見られる構図とも言っていい。そして、その構図は、あるいは、広く世の中の“恋物語”一般に敷衍できる構図でもあった。

だから、繰り返すが、二段の「西の京の女」も、そういうヒロインとしての登場のはずなのであったが、しかし、この物語は、読者のそういう期待を、逆に裏切ることになるのである。そういうおもしろさを提供するところに、この物語のエンターテイメント性のレベルの高さを思うべきであろう。

 

多様なヒロインと没落階層

ただ、「二段」のおもしろいところは、その相手のヒロインが、どうも、たいした美人でもない“人妻”か、あるいは“未亡人”らしい女であるということであった。そういう二段のヒロインの年齢は、けっして若くはないわけで、そのあたりも、当時の物語の常識からは逸脱している。

こういう「二段」のヒロイン像は、はたしてエンターテイメントのヒロインとして適格性はあるのか、ということになるのだが、「物語」の読者は、少女ばかりとは限らない。たとえば、やや年配に近づきつつある婦人は、「西の京の女」という地味なヒロイン像に自分を重ね合わせることができるのであり、そういう読み方を可能とするという意味において、「二段」は、読者に“共感”という面白さを与えるエンターテイメントの物語となったことは間違いない。

 

このように、「初段」の「いとなまめいたる女はらから」と「二段」の「西の京の女」とは、いかにも対照の妙と言うことができるが、このことは、かつて石田穣二博士が指摘したように、章段の構成要素そのものが緊密な対応関係にあることと照応している(「伊勢物語の初段と二段」『源氏物語攷その他』・笠間書院)。つまり、作者は、「初段」と「二段」とを鮮やかに対照させつつ、その連続性にも意を払ったのである。

このような対照的な性格を有するヒロインが連続して登場するということは、物語に描かれる恋が、多角的展開(複数の恋)を持つという本質と合致していると言うことができる。つまり、男性主人公ひとりに限定したとしても、その恋は多岐にわたるのであって、次の章段において、唐突に対照的なヒロインが登場してくる展開は、ある意味、物語としてふさわしいと言うことができるのである。

それはたとえば、光源氏の相手役が、藤壺や紫の上といったはなやかで正統的なヒロインだけではなく、末摘花や花散里といった“地味仕立て”のヒロインも、源氏の相手役として堂々とその存在を主張していることと同じだと考えていい。

 

しかし、それでも、ここで注意しておかなければならないことは、「初段」と「二段」のヒロインには、対照性とともに、共通の性格が見て取れるということである。それは、この二人のヒロインが属する階層が、けっして上流とは言えない階層であるということである。いや、はっきり言ってしまえば、平安京に都が置かれている時代に、旧都「奈良」に住む女や、平安京であったとしても、およそ住宅地としてはふさわしくない「西の京」に住む女は、仮に貴族と言い得たとしても、それはもはや没落階層に属する貴族と言うべきであった。

 

エンターテイメントである“物語”を開始するにあたって、連続する二人の対照的なヒロインを、しかし、このような零落の世界に登場させた『伊勢物語』は、やはり、その内面の奥深いところ(精神)に、ある種の激しい“思想性”とでも言うべきものを潜めていると言っていいのではないだろうか。

 

 

2015.5.12 河地修

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