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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第30回
「母なむ藤原なりける」考―没落と貴種流離譚(四)

 

菅原孝標が娘に語りかけるこのくだりは、実に興味深いものがある。孝標の常陸国への任官について、藤原定家筆『更級日記』の当該箇所に付された「傍注」には、次のように記されている。

長元五年二月八日任常陸六十女子廿五

この傍注によれば、菅原孝標が常陸国に赴任したのは「長元五年」(1032)、「六十」の時のことである。それは、かつて孝標が上総国から帰京(上総介離任)した時から、すでに12年の歳月が経過したことになる。また「女子廿五」とあるのは、上総国から帰京する時に「十三になる」と書かれていた作者菅原孝標女のことであって、すなわち、このくだりは、菅原孝標女25歳の年に、60歳という老齢の孝標が、東国(東海道)の常陸国に赴任するという場面なのである。

この時の父孝標は、娘に対して、その言葉は饒舌と言ってもいいだろう。まず、「年ごろは、いつしか思ふやうに近き所になりたらば、まづ胸あくばかりかしづきたてて、率てくだりて、海山のけしきも見せ、それをばさるものにて、わが身よりも高うもてなしかしづきてみむとこそ思ひつれ、」と、希望どおりに都に近いところに任官できたなら、娘のあなたを思い切り世話をして一緒に連れて下り、自分よりも大事に飾り立ててみようと、数年来思っていた、というのである。都にほど近いところならば、国司としての収益も高く、豊かな財を築くことが可能であろう。そういう国司の財を意識した求婚も、当時は多くあったのである。が、しかし、「宿世のつたなかりければ」―自分もあなたも宿運に恵まれることがなかったので、常陸国という遠国への赴任となってしまった、と嘆くのである。

かく言う孝標は、しかし、12年前には、娘たち(姉妹)を上総国に連れて下っている。この時、孝標は48歳であり、ある程度自分の健康には自信があったものと思われる。まさに、地方の珍しい「海山のけしきも見せ」てやりたいという娘たちへの思いが強かったのであろう。しかし、そういう壮年期でも、体調の悪い時はあるもので、その時は「これをやこの国に見捨ててまどはむとすらむと思ふ」―もしも自分が娘たちをこの国に残して先立ったならば、娘たちは途方に暮れどうしていいかわからないことだろう、という心情だったというのである。

人間生きていれば何があるかわからないもので、実際、娘を連れて任国に下った国司が、その任途中で他界するということはないわけではなかったと思われる。そのような事例は、「京のうちにてさすらへむは例のこと」―都においてさえも、親の突然の死去によって、娘が生きる方途を失うことはよくあることであった。たとえば、『源氏物語』において、最初に光源氏に絡むヒロインは空蟬であるが、彼女は父の突然の死によって、桐壺帝後宮への入内の道を絶たれ、受領層である伊予介の後妻に収まるほかはなかったのである。

『伊勢物語』「十段」に登場する「藤原なりける」母親が、当時どのような事情で「入間の郡みよし野の里」にて「なほ人」である夫の妻になっているのかはわからない。わからないが、都人に心を寄せる執念の存在からは、彼女の原点が「都」であったことを想像することが可能であろう。

東下りにおいて、没落の貴公子の東国における求婚と婚姻は、当然「貴種流離譚」を踏まえたものであろうが、その貴公子を迎える「藤原なりける」「母」もまた、その流離と漂着を、心から望んでいた人物と言うことができるのである。

―この稿続く―

 

2017.2.28 河地修

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