河地修ホームページ Kawaji Osamu
http://www.o-kawaji.info/

王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第36回
「みちのく」の「いろごのみ」―姉歯の松の女(二)

 

「さすがにあはれとや思ひけむ、行て寝にけり」とは、男の心に「あはれ」という感情が生じた結果、女のもとに行って共寝をしたということである。この場合、「共寝」に至った理由として、男に「あはれ」という感情が生じたと述べていることに注意しなければならない。つまり、この男は、「歌さへぞひなびたりける」と評された「みちのく」の女に、心を動かされたということになる。良くも悪くも、この男は、女を愛するということにおいて、豊かな感情を有する人物なのであった。

 

「いろごのみ」という言葉がある。おそらく、文献上の初出は、中古語の用例だと思われる。『日本国語大辞典』(小学館)の解説を掲げてみよう。

 

  1. 好んで異性との交情にふけること。恋愛、情事にまつわる情趣をよく解すること。また、その人。
  2. 実際的なことよりも風流、風雅な方面に関心や理解があること。また、その人。
  3. (1から転じて)遊女などを買うこと。また、その遊女。

『日本国語大辞典』は、1の用例としては『竹取物語』を、また、2の用例には『古今集』「仮名序」を挙げている。3については、時代は下って室町末の謡曲である。この場合の3は、そのまま1に同じであるが、2の解説は間違いである。用例として挙げられている『古今集』「仮名序」の当該箇所の「いろごのみ」とは、1の解説に等しい。

「仮名序」のくだりは、「今の世の中」(平安新京の時代)になってからの和歌の在り方を述べたところで、次のように言う。

今の世の中、色につき、人の心、花になりにけるより、あだなる歌、はかなき言のみ出でくれば、色好みの家に埋もれ木の人知れぬこととなりて、
(平安新京の時代、人の心は花のように華やかになって、表面的で中身のない歌やその場限りの浮ついた歌ばかりが出てきたので、歌は好色者たちの世界に埋もれ人の知ることのないものとなって)

つまり、九世紀になってからは、「人の心」が「花」となって、歌も「あだなる歌、はかなき言」というものとなった。従って、そういう歌は、もっぱら「色好みの家」=恋人たちの世界でしか詠われなくなったというのである。

つまり、九世紀初頭、嵯峨天皇の時代となってから、いわゆる唐風謳歌の時代(国風暗黒時代)になり、和歌は、朝廷等の公的場所から姿を消し、もっぱら「色好みの家」に「埋もれ」たと言っているくだりなのである。この「色好みの家」が、「恋の世界」であることは自明であろう。

「いろごのみ」とは、『日本国語大辞典』の解説を引用するならば、「好んで異性との交情にふけること。恋愛、情事にまつわる情趣をよく解すること。また、その人」ということであって、異性や恋愛を好む恋の世界そのものにほかならない。この「いろごのみ」とは、仮に男性の立場から言えば、限りなく女性を愛することであり、その愛情の根幹をなすものが、人間の心優しさという情愛であることは動かない。この情愛を直接に表現するものがあるとすれば、それは、中古語の「あはれ」というものであろう。

 

十四段の場合、「あはれ」の情愛から女との共寝に至った男であるが、しかし「夜深く」女のもとを出たと物語は言う。「夜深く」という表現は、夜明けまでにまだ十分時間があることを言うのであり、そういう状態で女のもとを去ることは、男の愛情が薄いように思われる。事実、女の心を捉えて離さない男の場合は、夜が明けるまでに(人に知られないうちに)、そこを去らねばならない関係であっても、周囲が明るくなるぎりぎりの時間まで女のもとにいることがマナーと言えた。

このくだりを読むと、男は、女との情事の後さっさと帰ったかに見えるが、実は、その理由は、女の歌の下の句から明白になる。「夜も明けばきつにはめなでくたかけのまだきに鳴きてせなをやりつる」―女は、夜が明けたら鶏を水槽にぶち込んで殺してやる、と詠んだのだが、その理由が「くたかけのまだきに鳴きてせなをやりつる」というものだったのである。つまり、鶏がまだ夜も明けないうちに鳴いてしまったから、すでに夜明けになったと理解した男が、「夜深く」帰ってしまったのだった。

このことは、あるいは、男は、鶏鳴を聞いて、まだ「夜深し」と認識していたにもかかわらず、これ幸いに帰ったものかも知れないが、女は、そういうことは思わない。あくまでも鶏が悪いのであって、だからこそ、「夜も明けばきつにはめなで」と激昂したのであった。この歌から伺われる女の人間性は、まさに「鄙」そのものと言えるだろう。しかし、男の女に対する態度は、あくまでも優しいのである。それは、「みちのく」の女の持つ激しい「鄙び」を目の当たりにしながらも、あくまでも「あはれ」という情愛をもって接する態度なのである。

こういう女の愛し方ができる男は、むろん「いろごのみ」には違いないが、好色者がすべてこういう愛し方はできないのである。この違いが難しいが、ただの好色者と、どのような女であれ、そこに「あはれ」という情愛を持つことができる好色者とは違うのである。本稿の場合、ただの好色者を「色好み」と表記し、後者の特別な情愛を持つ好色者を「いろごのみ」と表記することにしよう。

 

2017.4.11 河地修

次へ
一覧へ

>