河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第43回
「時がうつる」ということ―惟喬親王と惟仁親王(2)

 

惟仁親王の母は、藤原明子である。この明子と文徳天皇との間に、男子の皇子が生まれたことの意味は、きわめて大きなものがある。

先に掲げた系図からもわかるとおり、明子の父は、藤原良房、さらに、良房の父は、藤原冬嗣であった。冬嗣は、嵯峨天皇の側近中の側近であり、いわゆる「薬子の変」においては、嵯峨とともに、平城上皇藤原式家(藤原仲成・薬子)側の平城京還都、上皇重祚の動きを封じた功労者でもあった。この「薬子の変」勝利によって、嵯峨天皇の権勢は盤石のものとなり、以後、上皇時代を含め、承和9年(842)の崩御に至るまで、絶対的な権力を確立したのであった。

この嵯峨の好尚をよく反映した文化が、「弘仁・貞観文化」と呼ばれるものであり、大陸色の濃い貴族文化であった。これは、九世紀後半までの文化史的事情を示しており、その文化の特色(仏教美術や漢詩文芸の隆盛)から、あるいは「唐風謳歌時代(国風暗黒時代)」と言われることは知られていよう。

 

嵯峨は、冬嗣を絶対的に信頼し、評価したと思われる。その事例が、いわゆる「令外の官」である「蔵人所」の設置とその最初の「頭(かみ)」(長官)に冬嗣を任命したことであろう。この冬嗣の「蔵人頭(くろうどのとう)」任官を端緒として、藤原北家を中心とする有力貴族の子弟が、その後この官に就いたのであった。よく言われる「頭の中将」とは、「蔵人頭」(蔵人所の長官)と「近衛中将」を兼ねていることを言うのであり、有力貴族の子弟が任ぜられた。たとえば、『源氏物語』に登場する光源氏の親友(ライバル)「頭の中将」が、藤原北家の若者(物語中の左大臣の後嗣)であることは、そのような歴史的事情を反映しているのである。

この嵯峨天皇の冬嗣への恩顧は、さらにその私的関係にも及んだ。嵯峨天皇は、冬嗣の娘の順子を仁明の后(女御)として迎え、加えて嵯峨の皇女「潔姫(きよひめ)」を、冬嗣の後嗣である良房の正妻としたのであった。「潔姫」はすでに臣籍に降下していたが(源潔姫)、皇女が臣下の妻として迎えられた最初の事例であった。

良房は、嵯峨天皇皇女、潔姫の降嫁に、おおいに恐縮したのではなかったか―。良房は、ついに潔姫の他には一人の妻も持たなかったのである。他に子がいなかったことを考えれば、広く妻妾という概念を以ってしても、良房の妻はこの潔姫一人だったと思われる。最有力の権門勢家の後嗣が、妻を一人しか持たないということは、当時としては極めて異例のことと言っていい。おそらく、嵯峨天皇に対して極度に慮るところがあったのだろうと思われる。その結果ということになるのであろうが、良房の子は、明子一人ということになったのであった。

つまり、この明子は、父方(良房)の祖父が藤原冬嗣であることは言うまでもないが、母方(潔姫)からすれば、祖父は嵯峨天皇であった。そして、その明子が入内した文徳天皇もまた、父方(仁明)の祖父が嵯峨天皇であり、母方(順子)の祖父が冬嗣であった。

桓武、平城の御代を経て、激動と混乱の平安京初期を安定させた嵯峨天皇と藤原冬嗣である。その彼らを共通に「祖父」とする文徳天皇と藤原明子との間に出生した男子(惟仁親王)に、皇位継承における最優先の待遇がもたらされるのは、ごく当然の帰結ではなかったか―。 

明子に皇子(惟仁親王)が出生した時点(嘉祥3(850)年3月25日)で、藤原北家と紀氏との勝敗は決したと言っていい。

 

『古今和歌集』「巻一」「春上」(五二)に、次のような藤原良房の和歌が収載されている。詞書とともに掲げてみよう。

染殿の后の御前に、花がめに桜の花をささせ給へるを見て詠める

前のおほきおほいまうち君

年経れば 齢は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし
(年が経つと、人は歳を取り老いてしまうものだ。そうではあるが、この眼前のみごとな桜花―あなた―を見ると、老いゆえの物思いなど何一つないことだ)

「染殿」とは、北家良房の邸宅「染殿第」のことで、明子は、ここを里邸としていたと思われる。そのことから「染殿の后」とも呼ばれるのであるが、この時明子は、染殿第に滞在していたのである。この時、良房は、文徳天皇女御、惟仁親王生母である明子に対して、和歌を詠んで献上したのであった。「花がめに桜の花をささせ給へるを見て詠める」とあることからわかるとおり、春爛漫、桜花咲き誇る時であった。

この時の良房の胸中を察するに、後顧の憂いが全くないという感懐に満たされていたものと思われる。自身の老齢期ということを勘案すれば、あるいは、惟仁親王の即位直後の春のことかもわからない。惟仁親王の即位が、天安2(858)年11月7日のことであったから、この詠歌の時点を、あるいは、翌春の天安三(859)年のことと推測することが可能でもあろう。時に、良房五十五歳、明子三十歳の春であった。良房は、その年からさかのぼること二年前の斉衡4(857)年には、すでに従一位、太政大臣の頂点に昇り詰めていたのであった。

その後、良房は、貞観8(866)年に人臣初の摂政となり、貞観14(872)年、六十八歳で薨去したのであった。

 

2017.6.12 河地修

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