河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第55回
うたびとたちの日常―男と女の「おのが世々」(21段)(四)

 

「おのが世々になりにければ、うとくなりにけり」

21段の場合、妻の家出に関して、夫はまったく心当たりがないというのである。こういうケースは、現代で言えば、たとえば、定年退職を期に、突然妻から離婚を突き付けられた夫の狼狽ぶりに似ている。定年退職まで、これまで必死に家族のために働いてきたつもりなのに、なぜだ?とその理由に心当たりがまったくないという夫は、現実問題として、残念ながら多いらしい。

男の家を出て行ったものの、しかし、今なお男のことが忘れられない女は、寂しさに堪えかねて次の歌を送ったのであった。

今はとて 忘るる草の 種をだに 人の心に 蒔かせずもがな

(今はもうこれまでと人のことを忘れてしまうという草の種を、せめてあなたの心には蒔かせたくないものだ)

出て行きはしたけれど、男には忘れてほしくない、という複雑で微妙な女心と言うことができるが、このような心情は、何も女心に限ったことではない。人間の心情は、単純に理屈どおりには推移しないものであって、揺れ動く感情こそ寄せては返る波のせめぎ合いのようなものであろう。人間というものが、ある種の決断を行った後の、しかし、それでもかすかに残る後悔にも似た感情を吐露するに及ぶのは、これまた率直な心情の表出であって、和歌形式の文芸は、こういう場合にふさわしいものがある。

女の歌に対して、男は、次のような返歌を送る。

忘れ草 植うとだに聞く ものならば 思ひけりとは 知りもしなまし

(忘れ草を、あなたが植えるとだけ聞くものならば、今まで私のことを思ってくれていたのだと知ることも出来るだろうに)

この歌は、女が「忘るる草」を「蒔かせ」たくないと詠ったことを承け、男がそれを逆に詠い返したもので、いやあなたが忘れ草を植えた(忘れたい)ということを聞くと、そこには逆に愛情を知ることができるのだが、と切り返したのである。「忘れ草」をめぐる歌のやり取りとしては、なかなかのレベルに達しているのではないかと思われる。

しかし、この男の歌については、もう一つの解釈がないわけではない。それは、男が女の歌を逆に打ち返したのではなく、素直に打ち返したという解釈で、男が、私が忘れ草を植えたとあなたが聞いたなら、あなたは、私があなたを愛していたと知ることになるだろう、とするのである。不可能な解釈ではないが、次に続く男の歌との続き具合からからすれば、この歌にある「忘れ草」は、女が植えるという設定の方がおもしろい。つまり、男はそういう返歌を送ったことが契機となって、女が本当に「忘れ草」を植えたのではないか―という疑念が生じることになったのである。

その心情を詠ったものが、次に続く「忘るらむと思ふ心のうたがひに」の和歌であった。女が今ごろは自分のことを忘れているのではないだろうかと、男の「心」には「疑ひ」が生じたということで、つまりは、別れはしたものの、この男女は、なかなか忘れられない、あるいは相手に忘れてほしくない、という事後の複雑で微妙な心情に陥っていることは疑いようがない。

最後の贈答の紹介にあたっては、物語文では「ありしより言ひかはして」と言うように、この二人は、さらに歌の贈答を親密に繰り返したものと思われる。そういうやり取りは、後に継続して行われたものの、しかし、

おのが世々になりにければ、うとくなりにけり。

(結局はそれぞれ別の人生を過ごすことになってしまったので、二人は疎遠になってしまったということだ)

と物語は閉じられたのであった。

 

歌語「おのが世々」の表現世界

ここで言う「おのが世々」とは何か―。実は、この語は歌語なのである。次の例などが参考になるだろう。

高明の朝臣に笛を贈るとて

よみ人しらず

笛竹の 本の古ねは 変るとも おのが世々には ならずもあらなむ

(お送りしたこの笛の元々の古い音は変わったとしても、わたしたちは、別々の人生を歩むというようなことにはならないでほしいものだ)

『後撰集』「巻十三」「恋五」

籬(ませ)のうちに 根深く植ゑし 竹の子の おのが世々にや 生ひわかるべき

(籬のうちにしっかりと根深く植えた竹の子が、それぞれ結婚し別々の人生を歩んで別れてゆくのであろうか)

『源氏物語』「胡蝶」

「おのが世々」の「世」が男女の仲、あるいは夫婦の仲という意を有するものであることは言うまでもないが、「世」(よ)には、「節」(よ)が掛詞として掛けられている。「節(よ)」とは、竹の「節(ふし)」と「節(ふし)」との間の空洞の部分を言うが、「節(よ)」も「節(ふし)」も同じ漢字を使用するので注意が必要である。たとえば、『竹取物語』にある次の表現が分かりやすい。

この子を見つけて後に竹を取るに、節(ふし)を隔てて節(よ)ごとに黄金ある竹を見つくることかさなりぬ。

(この子を見つけて後に竹を取ると、節(ふし)を隔てて節(よ)ごとに黄金がある竹を見つけることが重なった。)

『後撰集』の歌の場合には、「おのが世々」の「世(よ)」に、この「節(よ)」が掛詞として機能し、さらに、「本の古ね」の「ね(音)」に「ね(根)」を響かせて、その「根(ね)」と「節(よ)」とを縁語の関係として捉えたのである。つまり、竹の「根」と「節」とは、まさに、元は同じ所から出発したものなのであった。

このように、「おのが世々」とは、それぞれの「世」、ということで、別々の人生、あるいは、別々の相手と生きてゆくということになるのであるが、しかし、その最初は、本の「根」であって、まさに「同じ根」と言うべきものなのであった。その同じ根から始まりながらも、しかし、時の経過と共に、竹の「節(よ)」のように、いつしか別々のものとして別れてゆく場合があるのである。「おのが世々」とは、そういうニュアンスを有する歌語と考えていい。

従って、21段末の「おのが世々になりければ」という表現には、竹がもともとは同じ根から出発しながらも、しかし、いつかは別の「節(よ)」に別れてゆくように、男も女も、それぞれが別々の人生を歩んでゆかざるを得ないという詠歎が表現されている。そして、それは、あたかもそれぞれが有するところの抗うことができない宿縁としての「おのが世々」でもあった。なぜならば、人にそれぞれある「世」とは、まさに、「前の世(さきのよ)」から約束された「世」でもあるからである。

21段の場合、男と女とは、「いとかしこく思ひかはして、こと心なかりけり」という関係であった。しかし、「いささかなること」から、「世の中を憂し」と思った女が男の家を出たのであるが、しかし、その後も二人は以前にも増して歌のやり取りを行ったのである。物語は、その贈答歌を詳細に紹介しながらも、しかし、二人は、ついに「おのが世々になりにければ」とその結末を告げるのである。

世の中一般に、こういう男女の物語は多くあるであろう。「竹」が、元は同じ「根」から出発しながらも、しかし、時の経過とともに、いつのまにか別々の「節(よ)」に別れてゆくように、時に、男と女は、それぞれが別の人生を歩んでゆくことがあるのである。

この物語は、そういう男と女の日常性に潜む離別の悲しみを描くものと言っていいが、そのためには、当然のことながら、物語の展開に応じた時の経過も必要だった。そして、二人は、それぞれに与えられた運命に抗うかのように、その時々の心情に対して、誠実に、かつ真摯に、和歌のやり取りを表出させたのであった。みごとな「歌物語」というほかはない。

過去多くの注釈書が、この章段構成に疑義を持ち、後人が付加した結果成立したものという根拠のない憶測を提起したのは、「おのが世々」という歌語への認識の無さもあったであろうが、基本的に、この物語へのきわめて杜撰な読解からもたらされたものではあったろう。

 

2017.10.1 河地修

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