河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第86回
「武蔵野の心なるべし」(41段)(一)

 

「女はらから」の再登場

第41段は、冒頭「昔、女はらから、ふたりありけり」と語り始める。この一文は、まことに印象的ではないだろうか。それは、この「女はらから」という表現からこの物語の冒頭「初段」を思い浮かべないわけにはいかないからである。つまり、第41段を読むに当たっては、我々は、否応なく「初段」の物語世界への顧慮を迫られることになるのである。

まず、41段の本文と現代語訳を掲げよう。

 

むかし、女はらからふたりありけり。ひとりはいやしき男の貧しき、ひとりはあてなる男持(も)たりけり。いやしき男持たる、師走のつごもりに、上の衣を洗ひて、手づから張りけり。こころざしはいたしけれど、さるいやしきわざもならはざりければ、上の衣の肩を張り破(や)りてけり。せむ方もなくて、ただ泣きに泣きけり。これをかのあてなる男聞きて、いと心苦しかりければ、いときよらなる緑衫(ろうさう)の上の衣を見出でて、やるとて、

紫の 色濃き時は めもはるに 野なる草木ぞ わかれざりける

武蔵野の心なるべし。 

(昔、同じ母を持つ姉妹が二人いたのだった。一人は身分が低く貧しい男を、もう一人は身分の高い男を夫にしていたのだった。身分が低い男を夫に持っている女が、師走の晦日に、正月元日の朝賀用の袍の衣を洗って、自分で張ったのだった。女はそのような賤しい作業もしたことがなかったので、洗い終わった袍の衣の肩を張る時に破ってしまったのだった。どうにもしようがなくて、ただひたすら泣くばかりなのであった。このことをあの身分の高い男が聞いて、たいそう気の毒に思ったので、とても美しい緑衫の袍の衣を探しだして、女に遣るということで、

紫草の緑が色濃い時は、目も遥か見渡す限り緑の色で、野の草木はみな同じなのであるよ

「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」の歌の心なのであろう。)

 

この41段の「女はらから」と、初段の「女はらから」とが同じ姉妹であるかどうかは、断定できない。『伊勢物語』は、基本的に、各章段の冒頭が「むかし、」と語り始めることから、考え方としては、一段一段が独立していると考えるべきで、両者を無理に関連付けて読むことには問題があろう。しかし、この物語は、そういう原則を明示しながらも、ゆるやかな連鎖のなかで読むよう読者に迫る性質があるのである。

言うまでもないことだが、「初段」の物語としての骨格は、歳若くして元服した主人公が、「ふるさと」(旧都)となった平城故京の春日の里で「女はらから」を垣間見し、間髪を入れずに求婚するというものであった。ただ、初段は、主人公が「姉妹」に求婚したという事実を伝えただけで、話としては終ったのである。初段は、求婚後のことには興味はなかったと言うほかはないが、しかし、この主人公の「いろごのみ」ぶりには、これから先の物語展開に大いに期待させるものがあったことは事実であろう。

すでに述べたことだが、「初段」を承けた「2段」は、その趣をがらりと変えた「まめ男」の話であった。「まめ男」とは、今の言葉で言うならば、「真面目男」というほどの感じである。まだ恋の駆け引きには慣れていない、純粋で一途な若い男のイメージがある。したがって、「初段」と「2段」とが別の話として読まれることは当然のことで、ヒロイン像にしても、「初段」の「いとなまめいたる女はらから」に対して、「2段」は、過去に男を通わせたこともある「西の京」に住む女であって、その両者は鮮やかな対照性を有しているのである。

そして、「3段」から「6段」が、歴史上実在した若き日の「二条后」との恋の物語となれば、「初段」の物語は、やはりその先は書かれていないということになり、読者は、あるいは、「初段」の顛末のことなど忘れてしまったに違いないのである。

しかし、どうであろう、この「41段」に至って、唐突ではあるが、「むかし、女はらからふたりありけり」と語られたのである。何といっても、この一文から「初段」を思い起こさないはずはなく、おそらくは、颯爽と登場した初段の「昔、男」と「女はらから」の、そこでは語られることのなかったその後の顛末が、ついにこの章段で示されているのだ、と読むのは、ある意味でごく自然の流れではないかと思われる。

そして、冒頭の一文の後に、「ひとりはいやしき男の貧しき、ひとりはあてなる男持(も)たりけり」と続く文を見て、読者は、「初段」の「昔、男」の「いろごのみ」の求婚の結末が、現実としては、極めて常識的なところに落ち着いていたことを知るのである。

ここで言う「いやしき男」と「あてなる男」とが、「女はらから」のそれぞれの婿と考えるべきであるのは言うまでもないが、「初段」に登場した主人公は、むろん「あてなる男」と考えなければならない。「初段」の「昔、男」は「春日の里」を所領としている特権階級の貴公子であることは動かない。「初段」と「41段」を結び付けて読む限り、あの「昔人はいちはやきみやびなむしける」と評された主人公は、ここで「あてなる男」として再登場したのであった。

そして、この「あてなる男」の妻は、「女はらから」の「姉」であったことが、『古今和歌集』に載せる当該歌の詞書からわかるのである。

―この稿続く―

 

2020.6.24 河地修

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