河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会


文学文化舎



-◆-「時々たまに、ひとり言」-◆-

シニア世代と読む『源氏物語』

平成30年10月19日

東京豊島区の大塚で『源氏物語』を読んでいる。サークル名を「十六夜会(いざよいかい)」と称するが、もともと区の主宰する古典講座で『十六夜日記』を読み、それが機縁で読書会のサークルができたのである。

発足当初のメンバーは、今はほとんどいらっしゃらない。他界された方もいて、そういう意味では、メンバーはその都度若返ったとも言えるが、現会員の年齢層は、立派なシニア世代である。

私は、ここでは『源氏物語』を30年以上前から読んでいることになる。一度最終巻の「夢浮橋」まで読み切り、その後、『更級日記』『土佐日記』『和泉式部日記』『伊勢物語』などの作品を経て、再び「桐壺」巻から読み始めた。今は、第一部の「藤裏葉」巻が終わろうとしているところで(平成30年10月)、この先は、第二部の「若菜」巻へと進むことになる。が、はたしてその先どこまで行けるか―。我々の年齢から言って、おそらく、「夢浮橋」までは読めないだろう。しかし、私は、それでいいと思っている。

 

日本の古典のなかで、今なお多くの人が読んで楽しめるという作品は、実はそう多くはないのではないか。古典に限ったことではないが、つまらないものは、時代の変遷の中で、かなりのものが消失(散佚)している。ということは、今日の古典作品は、相当の価値あるものが残っているという理屈になるのだが、文化財としての古典籍と、おもしろく読める古典作品とは、別物と考えたほうがいい。

つまり、文化財としての価値を持つ古典籍ではあっても、それを純粋に「読み物」として読むと、つまらない作品も多いのである。そういうつまらないものは、読んでもおもしろくないから、学校の授業以外ではほとんど読まれない。しかし、「写本」「板本」などの「古典籍」そのものは、むろん文化財であるから、図書館・資料館・博物館などの書庫で保管され、ときたま、何かの折りに展観の栄に浴するということにもなる。むろん、それらは、「読まれる」存在としてあるのではなく、ひたすら「見られる」存在としてあることは言うまでもないが―。

 

そういうなかで、たとえば、『源氏物語』(1008年頃成立)という作品は、その「読み物」としてのおもしろさは、他を圧している。さらに言えば、そのおもしろさのレベルは、世間一般の文芸作品のそれとは違うのである。

私の恩師である故石田穣二先生は、毎年東洋大の国文学科に入学してきた新入生を前に、「諸君は、源氏物語だけを読んでいればよろしい、他は読むには及ばない」というようなことをおっしゃっていた。その場には、むろん、「近現代」や「中世」「近世」の研究者も多数いたのだが、先生特有のジョークとして、皆で笑ったものである。

しかし、私は、この歳になって、つくづくこの先生の言葉がよくわかるようになった。それは、実感としてよくわかるようになったということであって、とにかく、『源氏物語』は、文句なしにおもしろいのである。このおもしろさは、若いころにはまだ十分にはわからなかった。というよりも、この歳になって、ようやく、身につまされるように、それは共感というかたちで、しみじみと胸にしみ入るように理解されるようになったのである。この胸にしみ入るような「かなしみ」を「もののあはれ」と言うのであれば、『源氏物語』は、まさしく「もののあはれ」の文学と言っていい。

この「もののあはれ」は、人生経験を積めば積むほど、より鋭敏に、より豊かに、より深く、「人の世のかなしみ」に感応するのである。そして、『源氏物語』は、光源氏のみならず、登場する人物たちの人生が、それぞれきわめて精緻に造型されているから、あらゆる局面での登場人物たちの人生ドラマが、シニア世代である我々の胸には、それこそしみ入るように理解されて来るのである。

『源氏物語』は、光源氏の人生を基軸としながら、人の世のあり方を、実にゆったりとした「時の経過」の中で、厳しく描いてゆく。当然のことながら、そこには、登場する人物たちの人生そのものが、抗うことのできない宿命として、時の流れとともに描かれるのである。 従って、主人公に限らず、登場人物たちは、一様に年老いてゆき、同時に、彼らの人生には、次の世代が新しく誕生もし、参加もしてくるのである。だから、今日まで時の流れとともに生き続けて来た我々シニア世代にとって、『源氏物語』世界は、まさに時空を超えて自分自身に重なる人間ドラマと言っていい。

 

私たちは、『源氏物語』を読み継ごう。古典を「古典籍」として後世に遺すことも大切だが、本当に大切なことは、それを読み楽しむという実践において、それを次代に遺してゆくということであろう。その実践は、大学の教室や研究室においてのみなされるものであってはならない。それは、この国の人々が、常に実践するものでなければならないと思う。

しかしながら、今日、『源氏物語』を、本当におもしろいと思い、本当に楽しんで読んでいる人は、まだそう多くはいないのではなかろうか。研究者の多くは、失礼な物言いだが、いわば「手柄欲しさ」に読んでいるようなものであって、本当に楽しんでいる人間はごく一握りのように思われる。

だから、私は、『源氏物語』を楽しく読む実践を、各所で行っているのである。先の「十六夜会」もそうだが、東洋大学のエクステンション公開講座でも、「桐壺」巻から読み始めて、今は「宇治十帖」の「総角」巻にまでたどり着いた。多くの方がリピーターとして付いてきてくださった結果であり、私は、みなさんには心から感謝している。

そしてさらに今、地元の高崎市でも、二カ所の公民館で『源氏物語』を読み始めた。参加者は圧倒的にシニア世代なのだが、この物語の本当の価値がわかるのは、シニア世代である。我々こそが、『源氏物語』を「読み継ぐ」というかたちで、その魅力を次代に伝えてゆければいいと、つくづく思う。

 

やがて我々は、誰もが死ぬ。その後は、次の世代がこの実践を続けてゆけばいい。市井の至るところで『源氏物語』を読む活動を実践してゆけば、それが、価値あるこの国の文化財を、まさしく生きたかたちで、確実に次代に遺してゆくという結果に繋がるであろう。

この国の文学の歴史において、シニア世代に託された責任は、重いものがあるのではなかろうか。

 


天災は忘れた頃にやって来る

平成29年8月9日

この言葉は、寺田寅彦のものと伝えられる警句である。私は、個人的には寺田寅彦の文章が好きで、高校の頃から随分親しんできたが、しかし、直接的にはこの表現を彼の書物に見出したことはない。大人になってから、何かの週刊誌で見かけたように思う。ただ、この警句は、考えようによっては、理に適った科学者らしい言葉ではないかと思われる。

 

天災とは、地震、津波、落雷、台風、洪水などの自然災害を言う言葉であろうが、特にそれらの中でも、被害の甚大なものを指すものと思われる。これらが「忘れた頃にやって来る」とは、警句の意義としては、だから、油断することなく備えよ、ということなのだろうが、逆に考えてみると、天災などというものは、そうそう何度もやって来るものではない、という指摘にもなるのではないか。

現代は、一種過剰な情報社会であって、日本全国、いな、世界中で起こった天災が、その日のうちにメディアを通じて我々に知らされる。このような情報過多社会に身を置いていると、天災は忘れた頃にやってくるどころが、日常茶飯的に発生しているわけで、いつしか、現代は「異常気象」の時代を迎えていると言われて、なるほど地球も、温暖化時代だけあって、いまや危機的状況であることを確信することにもなるのである。

確かに、現代は異常気象の時代と言えるかもしれないが、私自身の身辺に限ってみた場合、はたしてどれほどの天災に遭遇しているかと言えば、実はほとんど起こっていないように思える。つまり、毎年、天災はこの国のどこかで発生し、甚大な被害をもたらしてはいるのだが、個人の生涯を形成する個別生活圏においては、天災というものは、直接にそうめったに起こるものではないのである。

寺田寅彦は、関東大震災に遭遇しているので、件の言葉は、あるいは、その時の体験に基づく警句なのかもしれない。大地震というものは、いわば、大地の巨大なエネルギーの放出でもあるから、同一地域での余震を除いて、すぐにまたそこに重ねて大地震が発生することは、常識的には考えにくいものがある。だから、件の言葉は、大地のエネルギーが十分に充填される頃―遠い将来(忘れた頃)が危ない、ということでもあろう。たとえば、最近、首都圏に大地震が起こる可能性があるということが指摘されているのは、そろそろ大地のエネルギーがフル充填の時期になっているということなのかもしれない。

 

 

しかし、経験的に言えば、天災というものは、そうそう何度も直接自身の身の上に襲いかかるものではないだろうと、あるいは言えるかもしれない。だから、必要以上に神経質になることもあるまいとも思うが、ただ、この国の自然の形状からくる災害の頻度の地域差というものはある。なかでも、山間部を流れる河川の氾濫は、同一地域に何度も被害をもたらしやすいのである。

普段は、その流域の人々に水資源としての恵みをもたらす河川だが、梅雨時や夏季、あるいは台風シーズンには、集中的に豪雨をもたらすことが多い。列島各地の山間部から流れ出る河川は、その大小を問わず、大概はその雨量に対応しているのであるが、やはり、限界を超えるときがあるのである。その時は、自然災害となり、ひどい時は、山間の一村まるごとが流失するという悲劇をもたらすこともある。しかも、そういう災害は、自然形状に即して発生するという性質があるので、運が悪いと、何度もその地域を襲うということがあるのである。気の毒としか言いようがないが、それでも、その地域の人々は、そうした山間部に住み続けるケースが多い。

そういった地域の人々は、自然災害の脅威に常にさらされながらも、しかし同時に、自然の脅威と表裏でもある自然の恩恵とでもいうものを十分に認識していたと思われる。自然というものが、人間の存在をおおきく超えた絶対的な力を持つという点において、自然は、まさに「神」であり、人々は、そういう「神」に対する畏怖と報謝の念を、常に忘れることはなかった。

全国各地に伝わる様々な神事の対象は、そのおかたは「自然」と言っていいのであって、たとえば、この国の「一の宮」として位置付けられる伊勢の「皇太神宮(伊勢神宮・内宮)」の祭神は、言うまでもなく「アマテラス」=「太陽」である。また、山城国の「一の宮」として祀られる「賀茂神社」の祭神は、上賀茂が「賀茂別雷大神」であって、これは、京都盆地北部の山間部に豪雨をもたらす「雷」と言っていい。また、糺の森の北に鎮座する下賀茂(下鴨神社)は、周知の通り、上賀茂の祭神の母と祖父であった。

このように、この国の古代を代表する二つの神社の祭神は、そこに住む人々の畏怖と報謝の対象としての「自然」なのであって、それは、この国の人々が、遙か昔から自然に対して「生かされている」という思いを忘れることがなかったということをものがたる。そういう信仰心とでも言うべきものが強く醸成されていったのは、むろん、この列島が本格的な稲作農耕社会に入ってからのことであり、つまりは、弥生時代以降のことであろう。

日本人は、この列島に生きながら、彼らを取り巻く「自然」を「神」として怖れ、あるいは、「神」に報謝する心を忘れなかった。神の二面性としてよく言われる「荒御魂(あらみたま・あらたま)」と「和魂(にぎたま)」とは、神である自然の有する暴力と慈愛の本質を象徴するものであった。

 

 

話は最初に戻るが、寺田寅彦の言葉と伝えられる「天災は忘れた頃にやって来る」だが、天災や震災というものは、確かに毎年のようにそれに襲われるということは、一般的に言えば少ない。そういう意味では、確かに、忘れた頃にやって来るのであろう。だから、けっして油断をするな、ということにもなるのだが、あるいは、それだけでいいものかどうか。

現代の我々は、我々自身、「自然に生かされている」ということを、はたしてどれだけ普段から自覚しているであろうか。自然に生かされているということは、逆に、自然が生かしもするし殺しもする、ということで、まさに、ふだんは慈愛に満ちた自然が、いつ人間に猛猛しく牙を剥いて襲ってくるかもしれないのである。

我々の相手はそういう二面性を有する自然なのであって、古代の日本人は、自然の力というものに、人間がほとんど無力であることを知っていた。自然を神として深く祀る日本人の哲学的信仰は、そういった自然への絶対的謙虚の姿勢から生まれたのである。

そういう意味では、「天災は忘れた頃にやって来る」という警句には、天災は、人間が自然への畏怖と報謝の念を忘れた頃にやって来る、と解釈することも、あるいは、今日必要なことなのではあるまいかと思われもする。

 


恐れていたこと―沸騰するナショナリズム

平成28年10月18日

グローバリズムとは、わかりやすく言えば、地球を一つの家族と見る考え方だから、当然のことだが、国家や民族の自立を守ろうとするナショナリズムとは対立する。

このグローバリズムを押し進めてきたのがアメリカなのだが、これは、もともとアメリカが「多民族国家」だからである。その国土の範囲内という限定ではあったが、かれらは、グローバルな社会をつくりあげた。そのために、共通言語(英語)を設定し、緻密なルールに基づく契約社会をつくりあげた。グローバルな社会であるから、基本的に世界中の誰が移住して来てもよかった。ルールを守りさえすれば、基本的に誰でも受け入れることができる自由と平等の国だったのだ。

ところが、このアメリカで、メキシコとの国境に、万里の長城ならぬ長大な壁を設置し、さらにまた、イスラム教信者の入国を認めない、と堂々と公言する「大統領候補者」が現れた。立候補者が何を言っても構わないが、驚くべきことに、全米の半数近い人間がこの人物を支持していることである。アメリカは、建国以来の理念が、大きく揺らいでいるかのようである。

 

同じような傾向は、ヨーロッパでも見ることができる。イギリスがEUから離脱したのである。EUの場合は、ことが経済に集中しているので、アメリカのように、建国の理念云々ということでもあるまいが、その根っこにあるものは、グローバリズムに反発するナショナリズムの心情と思われる。国民のナショナリズムを、巧妙に刺激する政治家は、昔から選挙に強い。

 

アメリカとイギリスという、いわゆる先進国家でもこうだから、発展途上国でも過激なナショナリズムが席捲することになる。フィリピンの新しい大統領の過激な言動も、その根っこは、英米が主導してきたグローバリズムに反撥しているのである。むろん、イスラム過激思想に基づくテロも、大きく捉えていくならば、同じ根っこのものと言えよう。

 

政治とは、その国の民の暮らしを保証するものでなければならない。これは、現在の言葉で言うなら経済問題ということになるが、この分野では、近代以降、英米を筆頭にして、グローバリズムを強力に推進してきたのは言うまでもない。そして、後を追う国々も、必死になってこの路線を押し進め、今や新旧入り交じっての弱肉強食の競争世界に陥っている。

自国だけではなかなか消費も進まないから、海外にまで版図をひろげようとするのが、グローバル経済だろう。そのためには、人件費の高いところで物を作るよりも、人的コストのより安価な途上国で作ったほうがいいということで、先進国の製造業もそこに拠点を移そうとする。その結果、先進各国の様々な製造業が空洞化するという結果になり、つまりは、そこで働く人々の職が奪われるのである。だいたい、貿易収支など、すべての国がうまくいくはずはなく、どこかが黒字なら、どこかは赤字なのである。パチンコや宝くじの理屈と同じではあるまいか。

 

私は経済の専門家ではないからよくわからないが、自由貿易圏の拡大は、最終的には、世界の国々をグローバル社会に導いてゆかざるを得ないと思っている。そういう方向は、つまるところ、既存文化の崩壊につながりかねないことである。たとえば、グローバル経済で使用される言語は、まず「英語」であるから、日本の企業においても、社内ではすべて英語を使用するというところも現れた。あるいは、大学の教員採用も、授業を英語で行うことを条件とするようなところも現れている。これは、喜劇を通り越して、ある意味、悲劇としか言いようがないことである。

 

今、このようなグローバリズムの弊害や矛盾に対して、地球的規模で、激しい反撥と漠然とした不安感が沸騰しているように思われる。日本の場合、日本語の習得がなかなか困難なことや、さらに言えば、地理的な事情などから、難民の流入もほとんどない状態なので、その分、比較的、反グローバリズムの動きは穏やかに推移しているように思われる。

しかし、グローバル経済のあり方は「諸刃の剣」であって、自国の産業が衰退し、その損失に大きく直結するようなことになれば、状況はどうなるかわからない。いや、ことは経済だけの問題ではない。この国の文化が無惨に変節を余儀なくされるというようなことも、それへの反撥がいつ噴出するか分からないのである。

このような時代だからこそ、グローバリズムとナショナリズムの共存の問題について、真摯に、かつ、冷静に考えてゆかねばならない。

 


専任職退任の弁

平成27年11月7日

65歳定年制

私は、今年度末をもって満65歳(平成28年3月4日)を迎える。東洋大学の専任教員の定年は、満65歳であるので、今年度末で専任職を退任することにした。

“することにした”というような持って回った言い方をするのは、実は、私の個人としての定年は、満70歳だからである。つまり、70歳定年制の時に“学校法人東洋大学”に奉職したのである。だから、後5年も勤められるのに、「なぜ辞めるのか?」と言う人もいるし、何かまずいことをしでかして、クビになる前に辞めるのではないか、というようなバカなことを言う人間も、大学というところには、いるらしい。まあ、よほど人のことが気になってしかたがないのだろう。

ともかく、河地が、後5年を残して辞めることが謎に思えるようなので、この場を借りて退任の弁を綴ることとした。

 

もうかなり前のことだが、大学当局が、組合に対して、専任教員の定年を70歳から65歳にしたいと言ってきた。当時、組合執行部にいた私は、反発する他の執行委員に対して、これに賛成すべきだと、強く説いた(正確に言うと、当時教員70歳、職員60歳だった定員制を、教職員ともに「65歳」にすべきというものだったが…)。

夥しい学務量の増加が、専任教員を苦しめつつあった時代だった。もう授業と研究だけをやっていればいいというような時代は、とっくに過ぎ去っていた。しかし、大学の教学の運営は、あくまで教員職が主導で、65歳を過ぎた教授とそれを支える50歳代後半のベテラン事務職という組み合わせでは、もう組織は動かないと思ったからだ。

研究と教育だけなら、70歳でも、あるいは、その歳をはるかに超えても、可能であるかもわからないが、学務というものは、そうはいかないのである。さらに、過去の大学と大きく異なり、増大する学務量が、多くの専任教員を疲弊させている。そういう時代の組織としての専任教員の定年は、社会常識的な見地からも、やはり「65歳」であるべきだと思い、そう主張したのである。

今回、私は、かつて強く主張したことを、実行するに過ぎない。

 

私は、個人的に言えば、学務は決して嫌いではない。どんな仕事もそうだが、解決しなければならない問題点や課題は必ず出てくるし、その対策と解決方法をチームで検討し、確実にこなしてゆく仕事は楽しい。大学には、改革すべきことは山ほどあると言ってよく、結果として、私はそういう仕事に今まで随分と熱中してきた。そして、いつの間にか、60歳を超えた。「中高年」の括りで言えば、間違いなく「高年」の域に属する。

 

これは、63歳になる時のことと記憶しているが、ある冬の夜、悠然と自宅で酒を飲みながら夕飯を食っていたら、突然電話が鳴った。大学の事務からであった。聞こえてきた声は、「先生、教室で学生が待ってます!!」という悲痛きわまるものだった。

私は呆然としつつ、その時の、全身から力が抜けていく感覚は、今でもよく覚えている。手帳に書き忘れたことが直接的な原因だったが、こんなことは初めてだった。そして、その2ヶ月後の誕生日に、私は“63歳”になり、信じ難いことだが、その時初めて“63歳”という現実に直面したのだ。

その時の思いとは、その現実を認識して、なかば愕然とする思いを得た、という感覚であった。驚くべきことだが、その時まで私は、それほど歳を取っている(63歳)という自覚はなかったのである。

 

その時、突如として、底知れぬ不安に襲われた。それは、まさに、連如上人の御文章にある「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身」であることの強い自覚であると言っていい。この先、私の人生は突然いつ閉じられるのかわからない、と頓吾するように感じたとき、私は、私自身に与えられた“使命”について、あらためて強く思い起こさずにはいられなかった。この時、その“使命”以外のすべてのことが、ほとんど無意味に思われたのである。

 

『伊勢物語』研究のこと

その使命とは、『伊勢物語』という作品を、正しくその“定位”に置き直すことであった。その仕事がまだ道半ばであることを、私は、著書の『伊勢物語論集-成立論・作品論-』(竹林舎)の「あとがき」に書いている。書いたのは、2002年の暮れのことであるから、それから13年経過したことになる。その時から何もやらなかったわけではないが、何とも遅々とした歩みという他はない。

このスローペースの理由を、すべて“学務”に帰すつもりはないが、65歳を過ぎてさらにこのまま専任職に留まるとすれば、おそらくはついに、この使命の完遂は不可能となるに違いない。それでは、私の人生は完結しない。

 

『伊勢物語』という作品を、正しく“定位”に置き直すとは、この物語の評価を、紫式部の評価にまで、正確に引き戻すことである。不遜に聞こえるかもしれないが、その仕事ができるのは、私以外にはいないと思っている。

 

紫式部は、『源氏物語』「絵合」巻で、次のような歌を記した。

伊勢の海の 深き心を たどらずて 古りにし跡と 波や消つらむ

「伊勢の海の深き心」とは、むろん『伊勢物語』の「深き心」である。この物語に対する、紫式部の深い認識から、実は『源氏物語』は創作されているのである。つまり、後世の我々は、『伊勢物語』の「深き心」を正しく捉えなければならないのである。これもまた、不遜に聞こえることを覚悟して言うが、私には、『伊勢物語』の「深き心」について、それを明確に提示する自信がある。

 

ただ、それは、今の私に与えられた“生涯時間”の残量と老いに伴う“エネルギー”の消耗次第ということになる。それがいつ突然の宣告によって“ゼロ”になるやも知れぬ。そういう人生の“時間帯”に入った以上、私には、もはや、一刻の猶予も許されないのである。

 

私は、自身に与えられた職場の定年ではなく、天が与えた生涯という定年の間に、なんとしても自らに課せられた使命を全うしたいと思う。

 

文学文化舎

前著『伊勢物語論集-成立論・作品論-』は、発行部数が少なかったためであろう、すぐに品切れになってしまった。出版業界の苦境という現状を考えれば、研究書の少量出版も無理もないことだが、しかし、出版すべき書物は、常に公刊されていなければならないだろう。

そういう事情もあって、私は、前著を包摂し、新たなかたちで『伊勢物語論』を出版することにした。そして、その出版は、既存の出版システムに依らず、常に、希望する読者の手元にまで当該の書物が届くかたちの出版を目指すことにした。すなわち、読者や購読希望者の求めに対し、すぐに、いつでも、きめ細かく応じられるような出版システムの立ち上げを目指すのである。

この出版システムの事業拠点を、「文学文化舎」とすることにした。幸いにして、このシステムの運営については、≪河地修ホームページ≫の立ち上げ以来の同志の協力と、さらに、有力な印刷会社の協力を得て、まもなく完成実行できるところまで来ている。

 

 

今後、「文学文化舎」は、私が生産する古代日本の文学文化に関する執筆をリアルタイムで書籍化していく役割を担うであろう。むろん、このシステムは、インターネット上で構築されるシステムである以上、私は、自身に残された生涯という定年の間、緊張感と責任感とで生きてゆかねばならない。

今回の専任職退任は、そのための旅立ちとしては、最後の機会であると言ってよく、その時がたまたま“65歳”であったに過ぎない。

 


「才」と「大和魂」―安保関連法案のこと

平成27年7月22日

安保関連法案で国会が揉めている。違憲かどうかということなのだが、純然たる憲法学者を参考人に呼べば、彼らのほとんどは、これを違憲とするだろう。自衛隊ですら、普通の日本語読解力があれば、多くの人が、その存在を憲法違反とするに違いない。しかし、それでは、アメリカを中心とする国際社会が納得しないから、よく言えば“柔軟”な、悪く言えば“ごまかし”の、いわゆる高度な政治的判断という解釈が、戦後なされてきたに過ぎない。

今揉めている安保関連の法案も、ぎりぎりどの程度まで柔軟に対応できるのか、ということなのであって、これを国会で議論するのは当然だが、そこに憲法学者を呼んで意見を聞くという構図自体、滑稽としか言いようがない。

 

『源氏物語』の「少女」巻に、次のような一節がある。

なほ、才を本としてこそ、大和魂の世に用ひらるる方も強う侍らめ。
(やはり、学問を根底に据えてこそ、実務的な処理能力が世間で用いられる
ことに大きな力となるでしょう)

「才」(ざえ)とは、この場合、中国から移入された学問のことである。また「大和魂」(やまとだましひ)とは、江戸期の本居宣長以来、きわめて精神性の強い言辞として捉えられてきているが、もともと、この国固有の考え方ということで、柔軟で現実的、かつ実務的なものの考え方や対処法を指している。

「少女」巻の一節は、光源氏が、子である夕霧への政治家に向けての教育論の一環として語ったもので、基本的に、政治の世界が、実務として様々な事態に対応する現実的処理の問題であることを示していよう。しかし、その根底には学問が必要だというのである。

 

こう読めば、政治は「学問」がなければ駄目だと言っているように思われるが、要は、「大和魂」をより効果的に用いるためには、「才」が必要だと言っているに過ぎない。つまり、政治は、「大和魂」(現実への対応)で行われるべき性質のものということなのである。

政治は「大和魂」なのだが、しかし、その根底には学問があるべきだと、光源氏は言う。だから、当時としては一般的にはあり得ない、臣下第一等の光源氏の後継者夕霧を“大学寮”に入れるということになったのである(平安朝、高級貴族の子弟は大学寮には行かず“蔭位”の制で叙爵するのが普通であった)。

確かに、裏付けとしての学問的教養と理論とがなければ、柔軟な処理能力が必要とされる政治の運用というものは、ほとんど際限なく、“たが”がはずれる、ということになりかねない。

 

ところで、この安保法案だが、戦後政治史を通じて、最大の“大和魂”的政治運用の一つと言ってもいいだろう。

現代の国際社会は、日本国憲法の崇高な理念である“武器と戦争の放棄”を許容できるような理想的な状況にはほど遠いというのが現実であって、少なくとも、軍事力の保持というパワーバランスの緊張関係の上に外交が展開していることも事実である。だから、憲法を変えるかどうかという問題にもなるのだが、その前に、目の前にある喫緊の国際情勢に正しく対応すること(大和魂である)が、時の政権担当者の仕事ということになるのである。

 

かつての米ソ冷戦体制は、ぶつかればえらいことになるから、皮肉なことだが、それなりに各国が自制する国際社会であったと言うことができる。

しかし、今は違う。国家は、国際関係に気を取られ過ぎていると、指導者は、選挙やクーデターで、いとも簡単に交替させられるのである。そして、交替した指導者の人間としてのレベル次第では、ささいな衝突はいくらでも起こり得るし、そのうえ、始末が悪いことに、国際社会がグローバル化すればするほど、偏狭なナショナリズムは肥大化するところとなる。さらに、これに宗教や信仰が絡むと、もはや手が付けられない状態となってしまい、そこで、その国の指導者は、国民が喜ぶ方向に迎合する傾向とならざるを得ないのである。

たとえば、自国民が熱狂するならば、その国の政治指導者は、チャンスを見て国境を越えて他国の領土に入り込み、自国の国旗を高らかに掲げるであろう。それは、貧しい内政のレベルからもたらされたものには違いないが、それをやらなければ、自分が危ないのである。

 

だから、そういう動きをしても自国に反撃がこないと踏んだ時には、そういうレベルの国は、そういうことをやるのである。しかし、その程度のレベルの国の指導者でも、仮にそういう動きをしたら、相手国の強力な軍隊の反撃に遭う、と想定できれば、悲しいことだが、紛争の抑止力としての反撃的軍事力は、現代の国際社会には必要とされるということになるであろう。

また、言うまでもないことだが、国際化時代、特に我が国の基幹産業は(ということは、人も)、グローバルな環境の中に生命線を張りめぐらしている。それらの維持と安全確保について、今までのように、ひたすら米軍と金と国際社会の善意とに頼り続けるというわけにもいかないのは自明のことであろう。

 

繰り返すが、光源氏は(紫式部は、ということだが)、政治を動かす「大和魂」には、根底に「才」が必要だと述べた。

 

安保法案の場合、これは、窮極の現実的対応(大和魂)と言うしかない。しかし、この場合、「才」に相当するのが(矛盾するようだが)、多くの国民が声を挙げている「違憲」という判断、もしくは印象なのではないだろうか。

そういう状況の中で、ある与党政治家が、内閣の支持率が下がってもやらねばならないことはやらねばならない、ということを言ったというが、これは、政治というものが「大和魂」で行われるべき性質のものである以上、理想は理想として、国際社会では現実的対応を優先せざるを得ないという、政治を預かる政治家としての覚悟を示し得た言葉だと思う。

日本の政治が、常に「大和魂」と「才」との強力な綱引きで実行される限り、この国は、国際社会から孤立することもないだろうし、また、愚かな全面戦争に突入することもないだろう。

私は、そう信じている。

 


人生が二度あれば

平成26年10月13日

若い頃「演歌」ばかり聴いていた私は、同世代の友人が、カラオケで「エンカ」とは明らかに異質な歌を唄うと、口には出さないものの、違和感やかすかな抵抗感を覚える時がある。

それは、たとえば「ポップス」とか「フォークソング」とかいう類のもので、基本的に、あの時代の私の感性は、そういうものをまったく受け付けなかった。つまり、当時の私の「感性」には、相当に偏りがあったものと思われる。

 

しかしながら、どのようなケースでも、例外というものがあるのであって、そんな私でも、井上陽水の音楽は、鮮明に覚えている。歌えるわけではないけれど、あの透き通った氷のような高音の歌声には、とにかく魅了された。

自分ではとてもまともに唄えない陽水の曲ではあるが、ただ、危ういながらも、わずかにワンフレーズぐらいは“口ずさむ”ことができる曲がある。タイトルをあげれば、「小春おばさん」とか「人生が二度あれば」というような曲は、とにかくワンフレーズぐらいだが、なんとかなるのである。今から思えば、どうも、これらの曲は、陽水の曲の中でも、なんとなく「エンカ」っぽいところがあったのかも知れない。

 

ところで、その「人生が二度あれば」だが、最近、しきりに私の貧しい音楽生活を彩ってくれるようになった。つまり、あのフレーズが、深夜一人で酒を飲んでいたりすると、なぜか突然甦ってくるのだ。~ジンセイガァ、ニドアレバァ~

こういうフレーズが、にわかに天上から舞い降りてくるようになったのは、あるいは、私が否応なく“老い”に直面しているからなのだろうか、と思わないわけでもないが、しかし、この曲は、“老い”を迎えた側(親)のものではなく“青春”の側からのもの、すなわち、老いた両親に捧げる“子ども”の側からの“賛歌”なのである。

  父は今年二月で六十五
  顔のシワはふえてゆくばかり
  仕事に追われ
  このごろやっと ゆとりが出来た

と最初の歌詞は始まる。その後「欠け」た「湯呑み茶碗」で、その「父」は「お茶」を飲んで、そして、「湯呑み」に写る「自分の顔をじっと見ている」、と突然、「ジンセイガァ、ニドアレバァ~」、あの陽水の高音が天まで届くように、高らかに繰り返されるのである。

また、次の二番(と言っていいのかわからないが)は、「母」を歌っている。

  母は今年九月で六十三
  子どもだけの為に年取った
  母の細い手
  つけもの石を持ち上げている

そんな「母」を見ていると、「人生が誰の為にあるのかわからない」、「子供を育て、家族のために年老いた母」と、陽水はつぶやき、そして突然歌うのだ、「ジンセイガァ、ニドアレバァ~」

 

 

この曲が発表されたのが1972(昭和47)年というから、調べてみると、その時の陽水は、23歳であり、私は、21歳であった。そして、私の両親もまた、この曲の両親とほぼ同じ年齢であった。

 

偉大なアーチストと同じに括ったら申し訳ないが、陽水も私も、二十代前半の、まさに青春センチメンタリズム真っ盛りと言っていい時代であった。

陽水のセンチメンタルは、老いた両親の、その人生の“復活”を音楽に託して祈り、そして、その音楽は、故郷を離れようやく東京で再出発を始めた“エンカ”好きの青年の心を捉えた、ということができる。

つまり、私の場合、陽水の曲の中の両親が、そのまま、私の両親の姿に重なっていき、高校時代に何度も“父兄召還”をくらったことや、その当時の貧しい兼業農家の暮らしぶりなどが思い浮かんできて、「父よ、母よ、ああ~、ジンセイガァ、ニドアレバァ~」と、私自身のセンチメンタリズムも、心のなかで爆発的に最高潮に達したと思われる。

 

最近、この歌が、なぜか突然脳裏に浮かんでくるようになったのは、確かに、私自身がこの曲の中の「父親」に近い年齢になったことと無関係ではないだろう。そして、無意識のうちに、人生の“総括期”に入ったとも思われるのだが、しかし、先日、甥の結婚式に出て思ったのだ。ほんとうに、「人生が二度あれば」いいと「老いた親」は思うのだろうか、ということである。

当日の結婚式は感動的だった。小さい頃からホンワカしていた優しい甥っ子が、なんと堂々たる大人の姿に変身を遂げ、そして、バージンロードを楚々と歩む花嫁を待っている。そして、そのバージンロードを花嫁に付き添って進む父親の表情は、緊張の中にも“安堵”という言葉がふさわしく、その顔は、まことに“慈顔”と言っていいものがあった。

さらに言えば、式の最後に甥の父親が、謝辞に言葉を詰まらせて泣くのも、我が子の見事な成長ぶりにその時初めて気づき、一瞬“来し方”に思いを巡らした時の、偽らざる心情の吐露そのものであっただろう。

 

言うまでもないが、この時の親たちは、人生がもう一度あればいい、なんて、まず思いはしないだろう。その胸に去来するのは“安堵”という言葉以外にはないはずで、このうえ、もう一度人生が与えられたとして、はたして、こういう人生(安堵を実感するような)が再び保証されるとは限らないし、だいたい、この式の主役である“息子”や“娘”は、二度と授かることはないのである。

 

また、逆のケースを考えてみよう。ここに、度重なる不幸に見舞われてきた親がいるとして、その人は、もう一度人生が欲しいと思うだろうか。死ぬ間際まで壮絶な苦しみを味わったとしても、おそらくは、人生はもうたくさん、と思うのが自然の感情というものだろう。

ところで、私の母は84歳で亡くなったが、老年期はパーキンソン病もあって、最後は入院先の病室で亡くなった。ある日東京に帰るという時、私は、ついいつもの癖で、「もうちょっとがんばろうな」と母の耳元で言ったところ、母は、小さな声で、「はぁ、ええ、」と、絞り出すようにつぶやき、そして、私の眼を見て、にやっと、笑った。その「はぁ、ええ、」が、私にとって、母の最後の言葉となった。

 

いつしか時は流れ、私も、陽水の曲の中の親と近い年齢になった。とはいえ、「人生が二度あれば」なんてことは思わない。よくも悪くも、人生は“一度切り”で充分だ。

しかし、そうは言っても、苦労続きだった(そう思うのは子どもの誤解と錯覚が多いのだが)老いた両親に、人生をもう一度プレゼントしたいと祈るのは、素直に育った子どもの偽らざる心情であって、だからこそ美しいのだけれど、しかし、それは、あくまでも、青年期特有のセンチメンタルで甘美な“幻想”なのである。

 

でも、最近の若者たちは、(親に)人生が二度あれば、なんて、祈ってくれるのかしらねえ、、、?

「演歌」が、若者たちの世界から消えて久しい。

 


「多胡碑」と「青い山脈の碑」

平成24年11月3日

18の時にふるさとを離れてから、私は、何度も転居ということを繰り返した。そして、小さい頃から、地図を眺めることが好きだったせいか、転居の前には必ず移転先の地図を買い込んでは、それこそ嘗めるように隅々まで眺め尽くしたものだ。それは、これから展開されるであろう新天地における夢想空間に遊ぶことであり、私にとっては、まさに、至福の時と言ってよかった。

 

現在住んでいる群馬県高崎市吉井町へは、20数年前に埼玉県から移り住んだ。その頃はまだ「高崎市」ではなく「多野郡吉井町(たのぐんよしいまち)」と言った。「多野」という名は、草の匂いのするようないかにも鄙びた地名だが、調べてみると、むろん、由来(いきさつ)がある。
 この辺りは、今でも山野が連なる土地であって、「多野」の名については「野多シ」と訓読したくなるところだ。が、この郡名の由来はそうではなく、明治期に「多胡郡(たごぐん)」と「緑野郡(みどのぐん)」などが合併、その際に旧郡の名称から一字ずつ組み合わせたものに過ぎなかった。
 つまらないと言えば、つまらない由来ということになるが、しかし、「多野」という言葉はこの土地の雰囲気をよく表した郡名であって、山育ちの私は嫌いではなかった。

 

ところで、明治期まであった「多胡郡」のことだが、この郡名には立派な由来がある。実はこの「多胡郡」は、和銅4年(711)に建郡されたもので―つまり、国から正式に認可されたもので、このことは、我が国二番目の国史(正史)の『続日本紀』に堂々と記載されている。そして、この郡名の由来は、間違いなく「胡多シ」と訓読すべき性格のものであった。

 

「胡」という漢字は、もともと中国、黄河流域の漢民族から見て、北方の異民族を指す言葉である。ありていに言えば、「外国人」ということであった。むろん、イメージはよくない。つまり、「多胡」とは、そういう「胡」が「多」かった土地であることを物語っている。

 

日本における「胡」は、圧倒的に朝鮮半島からの「渡来人」であった。そういう「渡来人」たちが中心となって発展した地域が、この「多胡(たご)の郡(こおり)」なのであって、和銅4年の「多胡郡」建郡とは、この土地の発展(養蚕・紡績業ではなかったか)に苦闘しつつ尽力した「渡来人」たちへの顕彰という意味合いが強かったに違いない。

 

奈良時代初期(711)、中央集権国家から、その活躍と功績を認めてもらった地方の豪族、なかでも渡来人たちの喜びはいかばかりであったかと思われる。
 彼らはよほど嬉しかったに相違なく、「多胡郡」建郡の正式認可が届けられてから、すぐに、この土地に産出する「多胡石(たごいし)」に、記念の字句を刻んだ。
 その石碑(いしぶみ)が「日本三古碑」の一つ「多胡碑」なのである。
 その字体や文面からは、当時の人々の、それこそ満面の笑みがこぼれ落ち、まるで小躍りしているかのような躍動感と喜びとが伝わってくる。

 

なんと素直で正直な人々であったことか―。この古碑からは、「鄙(ひな)」に住む古代日本人のおおらかで心美しい心情を見る想いがして、私は、この石碑を、日本人の心の文化財として、高く評価するのである。

多胡碑

多胡碑

 

さて、標題のもう一つの「青い山脈の碑」である。
 先にも述べたように、転居先の地図を飽くことなく眺める癖がある私は、当時少しでも時間がある時には、「多野郡吉井町」付近の地図を、無心に眺めていた。
 そして、ある時のこと、私の眼に驚くべき字句が飛び込んできたのである。それが「青い山脈の碑」というものであった。
 私は驚愕した。この文字は、どう見たって、あの「青い山脈」ではないかー。

 

私にとっての「青い山脈」とは、一にも二にも、「変しい変しい、新子さま」(注、新子はヒロインの名、新子に宛てた男子からのラブレターの文面は、「恋」を「変」と書き誤っていた)を、あの吉永小百合が演じた「日活青春映画」のそれであり、「わ~かくあかるい、うだごえに~」の、あの「青い山脈」の「唄」であった。

 

私は本当に驚いたのだ。人は驚くと、当たり前のことだが、冷静な判断力を失うものである。
 私は、今から思えば、実に滑稽な夢想世界に迷い込んでしまったのだ。

なんということだ、これから移り住む吉井町は、ひょっとしてあの映画の舞台だったのか、いやいや、そんなことは聞いたことがないぞ、何かの間違いではないのか、いや、それではおまえは、あの映画がどこで撮影されたのか知っているのか、映画のスクリーンからは、舞台となった場所は、なかなかわからないものだ、ロケも継ぎ接ぎで行われることもあるではないか、あの映画の中で写った清らかな川、そして高校生たちが自転車に乗って橋を渡って行った、あの映画のワンシーンは、あるいは、この町が選ばれたのかもわからない、そうだ、住む予定の所を南に下がった辺りに、「鏑川」という川が流れているぞ、とすれば、あの映画の中の橋は、地図にあるこの橋なのかあ!! おおなんという偶然だ、なんと感動的なことだ、私はこれから、あの「青い山脈」ゆかりの土地に住むことになるのだ、これは宿世(すくせ)か、運命か、目に見えぬさだめの糸に導かれ、私は確かに生かされているのだあ!! ―以下エンドレスのため省略―

このような夢想(妄想)に浸りきった私は、やがて当地に移住した。そして、引っ越しの慌ただしさが一段落したある日曜の午後、ついにその「青い山脈の碑」を訪ねることになったのだ。

 

それは、吉井町の南方に広がる山稜の一つ「牛伏山(うしぶせやま)」という小高い山の頂上付近にあった。
 頂上近くまでは車で登ることができた。車を降りてすぐのところに、コンクリートで作られた天守閣もどきの建物があって、その趣味の悪さに辟易しつつも、私は、気丈に尾根づたいを歩き、その「青い山脈の碑」を目指したのであった。

 

辺りは、小公園ふうに整備されていた。そして、目的のものはすぐに見つかった。それは紛れもなく「青い山脈の碑」であった。

 

心躍り、逸る気持ちを抑えながらも、私は、まず、石碑の隣に設置されている白いプレート板の解説文を読んだのだった。  そこには、石碑を建てるに至った経緯が、吉井町の教育委員会によって書かれてあった。その概略は次のとおりである。

昭和45(1970)年、吉井町は、町立小学校の校歌の作曲を、「青い山脈」の作曲者である服部良一氏に依頼した。そのため当地を訪れた氏は、曲想を得るためにその校区を眺望できる牛伏山に登られた。その折、氏は「すばらしい眺望と緑なす山波」に「青い山脈」の世界を偲ばれた。そこで、「随行の一同もこれに応え、期せずして「青い山脈」の歌を唱和」した。その記念に歌碑を建てようということになり、吉井町、及び吉井町教育委員会によって、この碑が建てられた。

私は、このプレート板の解説文を読み、とにかく驚いた。要は、「青い山脈」の作曲者である服部良一氏と吉井町の関係者らが牛伏山に登り、みんなで「青い山脈」を合唱した、その記念に歌碑を制作した、ということなのである。

 

これを読んだ時のことだが、私は今でも鮮やかに覚えている。その瞬間、これまで地図の上で「青い山脈の碑」の存在を知ってから続いてきた私の夢想は、実にあっけなく消え去った。それは、夢想が現実の前にいとも簡単に否定される、あるいは、現実の厳しさの前に愕然と立ち尽くす、といったようなものではなく、その現実があまりにも信じがたい、というよりも、目の前の現実を、どうしても受け入れられないことによる、なかば呆然自失の体というに近かった。

青い山脈の碑 青い山脈の碑

「青い山脈の碑」。左は解説のプレート。右は碑を正面から撮影

 

正直に言えば、この時の私には、このようなことが「碑」になる、しかも公的機関がこれを建てる、ということが、とうてい理解できなかったのである。

 

20数年前の私は、この解説文を一読した時点で、その場を離れた。来なければよかった(転居のことではない)、という苦い悔恨の思いが、その後長い記憶となって残った。その時以来、この山には子供が小さいころに何度か登りはしたが、しかし、この「碑」には一瞥もくれることはなかった。

 

あれから20年以上の歳月が経過した。昭和45年(1970)に、牛伏山に登った服部良一も平成5年(1993)にこの世を去った。そして、日本国政府は、服部良一の戦後歌謡界における貢献に報いるため、没後ではあったが、国民栄誉賞を授与した。

 

当たり前のことだが、私においても、あの日から同じだけの時間が経過している。そして、それとともに、私の、この「青い山脈の碑」に対する想いも、微妙に変化してきたように思われる。

 

この稿を草するにあたり、私は、今回10数年ぶりに、牛伏山に登った。ただ、厳密に言えば、「青い山脈の碑」とは、あの時以来20数年ぶりの再会であった。あの時は、それこそ逃げるようにその場から立ち去ったため、実は、石碑に刻まれている「青い山脈」の譜面と歌詞とが、服部良一(作曲家)と西条八十(作詞)の揮毫からなるということを知らなかった。
 今回、はじめてこのことを知った。「碑」の裏面に「青い山脈音楽碑建立趣意」が刻まれてあったのだ。それは、次のような言葉を結びとしている。

倖い碑文は原作者の詩聖西條八十氏と、楽聖服部良一氏の揮毫を頂き得た。この碑は独り吉井町の文化資源にとどまらず本県の、いな日本の音楽史に光彩を放つことを疑はない。
趣意文

青い山脈の碑の裏面(趣意文)

 

当時の吉井町の人々は、この国を代表する国民的作曲家、服部良一が、牛伏山からの眺望に感嘆し、それを「青い山脈」の世界に準(なずら)えたことが、本当に嬉しかったのだ。それこそ、跳び上がりたいほどの嬉しさだったのではないか。私は、この時の町民の喜びは、あるいは、あの「多胡碑」を建てた人々の心に通ずるものがあるのではないかと、思うようになった。

 

敬愛してやまぬ憧れの人に認めてもらった喜びを、感激のあまり「碑(いしぶみ)」に刻まないではいられないというところは、この地の人々が、遥か古代、「多胡碑」に喜びの文字を刻んだ人々の“末裔”であると言うにふさわしい。


煽る政治家と煽られる政治

平成24年9月28日

東アジアが領土問題で揺れている。

いわゆる領土問題は、複雑な歴史的事情が介在しているわけで、単純な一方通行的論理では決して解決しないことは誰でもわかりそうなものなのだが、始末が悪いことに、その一方通行的論理を、テレビの画面でがなり立てている人物が、著名な政治家だから困る。

 

こういう政治家は、外交にしろ何にしろ、国や社会を混乱させるだけの存在だから、理性が必要な国政の世界では従来は相手にされなかった(だから知事に転身したのだろう)。そういう意味では、一昔前の政権与党は大人だった。理想論をぶち、血気にはやる青年将校たち(そう言えば、青嵐会とかいう国会議員の集まりがあったなあ―血判なんぞがあった)の心情に十分理解を示しつつも、どうにもならない時は、切り捨てた。

 

今は違う。理想論的直情的主張が国民には耳に心地よいため、これを迂闊に否定すると、小選挙区政治では落選するのではないかという恐怖感に駆られてしまうのである。だから、政権与党の中枢にいる政治家も、結局は煽られてしまうのだ。

 

我が国にとって、ということは、国際関係にとって、こういう傾向は危険このうえないことである。こういう政治家の「煽り」に、我々は、決して煽られてはならない。

 

学問とは「理」の追求であり、「理」を失って一時の感情に国民の大多数が走ったとき、「戦争」になる。

領土とは、長い歴史の変遷の中で、あちら側になったり、こちら側になったり、その帰属なんて、終わりのないシーソーゲームのようなものだ。こちら側にあった時の写真を持ち出して、動かぬ証拠だあ、と三流のメディアはがなりたてるが、写真のない時もあれば、明白にあちら側にあったと思われることもある。そしてさらに言えば、はるか昔は、誰のものでもなかった。

 

政治とは、「冷静」でなければならず、悪く言えば、現状のまま、なんとか曖昧さに逃げ込むという「方便」も必要なのだ。

 

このような事態を見るにつけても、学問として「日本」を見る「日本文学文化学」が必要だと、つくづく思う。我々の目指すべきものは、安易なナショナリズムの克服であり、「理」をもって「この国」を知ることである。

 

みなさん、「心」を「煽る」政治家に、くれぐれも「煽ら」れてはなりませんぞ。



「あいちゃんは太郎の嫁になる」考

平成24年5月3日

さる3月末、私の勤務先で定年退職の方がいて、その送別会が催された。会場となった銀座の中華店では、私は役目柄、その日の主役であるMさんの隣の席に座ったのだが、私の正面には、可愛らしい女性職員のNさんが籤で座るはめになった。

 

話が弾んでいくうちに、そのNさんが職場では「あいちゃん」という愛称で呼ばれているということが分かって、紹興酒のおかげですっかり饒舌になっていた私は、思わず、「そう言えば、昔、あいちゃんは太郎の嫁になる、という唄があったなあ―!」と叫んだのだったが、その場の雰囲気は「ふぅ~ん…??」という白んだ空気、もはやおじさんの出番ではないのかあ…、と傷心寸前の私の右側で「いやあ、その唄ありましたねえ…」と言ったのが、くだんの定年退職のMさんなのであった。

嬉しくなった私は、「Mさん、それ唄ってみてよ」と強要し、仕方なく(?)控え目に口ずさんだMさんに、「いや、そこはこうだよ」とダメを出したあげくに「あいちゃんは~太郎の~嫁になるぅ~」と、一人で勝手に盛り上がって、雨の銀座の夜も、勝手に更けていったのであった。

 

唄のフレーズというものは、何かのきっかけでなかなか頭から離れなくなるもので、翌日も、またその翌日も「あいちゃんは~太郎の~嫁になるぅ~」としばしばそのフレーズが勝手に出てしまう私は、なんとなくインターネットでこの句を検索してみることにした。

 

検索の結果、まず、驚いたことは、この唄の正式なタイトルが「愛ちゃんはお嫁に」であることだった。私はてっきり唄のタイトルは「あいちゃんは太郎の嫁になる」だと思い込んでいたのだ。
しかし、作者(作詞、原俊雄)には申し訳ないが、この唄のタイトルは、「あいちゃんは太郎の嫁になる」の方がよかったのではないかと思う(「愛ちゃん」も「あいちゃん」の方がいいように思う、「あいちゃん」は「愛ちゃん」だけではないからだ、ちなみに、くだんのNさんも「愛ちゃん」ではない)。
 この唄(作詞・原俊雄、作曲・村沢良介、歌・鈴木三重子、テイチクレコード)は昭和31年(1956)の発売で、当時大ヒットを飛ばしたとあるが、このタイトルならば、もっと大ヒットを飛ばしていたのではないかと、実に勝手ながら、私は思うのだ。

 

昭和31年当時の私は、おそらく幼稚園児だったはずで、しかも、都から遠く隔絶した西日本の山中に暮らしていたことから、発表当初のこの唄のメロディーが、直接ラジオなどから流れて、その歌声に幼い私が反応していたとは考えられないことだが、しかし、少なくとも50年以上、この唄の記憶は「あいちゃんは太郎の嫁になる」のフレーズとして、しっかり私の中には残っていたのである。
 つまり、そういう意味では、この「あいちゃんは太郎の嫁になる」というフレーズは、実に耳に心地良いフレーズであったことを物語っている。

「愛ちゃんはお嫁に」の歌詞の第一番を紹介すると、

さようなら さようなら 今日限り
愛ちゃんは太郎の 嫁になる
俺(おい)らの心を 知りながら
出しゃばりお米に 手をひかれ
愛ちゃんは太郎の 嫁になる

とあり、この中の「愛ちゃんは太郎の 嫁になる(アイチャンハタローノ ヨメニナル)」は、前半と後半、二度繰り返されるフレーズであって、作者が最も強調するフレーズであることがわかる。そして、このフレーズは、たとえば、音韻の面から音数律的に言うならば、8-5の調子になっているだろう。
 日本語の音数律として「八五調」というものはないが、この「あいちゃんは」の「は」を、仮に取ってしまえば「愛ちゃん太郎の 嫁になる(アイチャンタローノ ヨメニナル)」となって、これはもう立派な「七五調」と言っていい(注、ちなみに、友人のⅠさんにこのあたりのことについて話をしたところ、Ⅰさんは、八五調について早速調べてくれて、実は「今様」などには見られるということであった)。

 

七五調は日本語の音数律の代表的なものだが、五七調と違って、その印象はより軽快な印象を持つと言われる。「アイチャンタローノ ヨメニナル」では、まさにテンポが軽快で、というよりも軽快過ぎて、自分を捨てて太郎の嫁になる愛ちゃんへの未練心と別れのつらさ哀しみが、その軽快さゆえに、希薄になるように思われる。そこで、「愛ちゃん」の後に、係助詞の「は」を字余り的に置くことで、

アイチャンハ タローノ ヨメニナル

と、基本的にリズムカルな七五調を守りつつも、主人公「俺ら(おいら)」の嘆きと哀しみの心情がぐぐっと深まることにもなったのだ。

 

さらに、このフレーズの歌詞について述べるならば、この場合、「愛ちゃん」が「嫁」に行く相手が、「太郎」であることに注目しなければならないだろう。

 

「太郎」とは何者か。『日本国語大辞典』(小学館)によれば、この言葉の語義については、まず、「長男の称」とあり、用例として『伊勢物語』の「第6段」があげられている。すなわち、かなり古い時代(伊勢物語の成立は10世紀前半)から、「長男」という語義で用いられていたことがわかるのであり、さらに時代が下るにつれて「長男の称」として用いられていた「太郎」が、そのまま「長男」として出生した男子の「名前」そのものとして用いられるようになったのである。

 

また、『日本国語大辞典』は、この「太郎」という言葉に、「最もすぐれたもの、または最も大きなものに対して敬称として添える語」とも解説している。

このことは、武士の時代以降明確になる「父系制」のなかで、特に、長男を第一のものとする社会慣習の雰囲気がよく表れていると言うべきであろう。

 

明治政府は、明治31年(1898)、民法の「家族法」において、嫡出の長男子に戸主のすべてを単独で相続させる家督制度を確立させたが、これは、多産による男子の相続争いを避けさせるという「お上」としての発想もあったのだろうが、基本的には、当時の一般的な社会風習を「法」として認定したに過ぎない。

この家督制度は、むろん法的には、戦後廃止されたのだが、しかし、農村部を中心に、家屋敷・田畑・山林の管理や親の扶養、祖先の祭祀など、そのすべてを長男が負うということで、長男が親の資産のすべてを単独で相続するという慣習は残った。

 

この昭和31年に発表された「愛ちゃんはお嫁に」に登場する「太郎」は、間違いなく、ここで言うところの「長男」としなくてはならない。そして、ここからは想像になるのだが、この唄の主人公の「俺ら」とは、次男か三男か四男かはわからないが、その家の財産資産を相続することのない「嫡出の長男子」以外の男子と考えるべきであろう。すなわち、この主人公の「俺ら」は、やがてはその家を出ていく運命の男子だったのである。

「愛ちゃんはお嫁に」の第一番の歌詞、

愛ちゃんは太郎の嫁になる
俺らの心を知りながら

というくだりから想像するならば、「俺ら」と「愛ちゃん」との関係は、少なくとも「俺ら」の一方的な片思いなどではなく、ある程度想いを通わせる間柄であったことを示唆している。このことは、さらに、第二番の歌詞、

愛ちゃんは俺らに ウソついた

というくだりからも、容易に想像できるであろう。おそらく、この唄の「愛ちゃん」は、「俺ら」の気持ちをよくわかっており、「俺ら」の告白に対して、私も同じ気持ちよ、ぐらいのことは答えていたものと思われる。にもかかわらず、「愛ちゃんは太郎の嫁になる」というのであった。

 

この「愛ちゃん」の結婚を、単純に、女の心変わりや打算などと解釈すべきではないだろう。

第一番の歌詞、

出しゃばりお米(よね)に手をひかれ

とあるくだりに注意したい。「お米(よね)」の「出しゃばり」についてである。

まず、お米(よね)」とは、奉公人の女であろう。「愛ちゃん」の家に奉公に上がっているのである。

「よね」、もしくは「およね」という名について、その正確なデータなどないのだが、おそらく江戸時代以来の日本女子の典型的な名であったろう。「よね」の表記は「米」であって、たとえば、江戸期においては「米寿」の祝いを「よねの祝い」と言ったように、長寿を象徴する祝言であった。

加えて、「米(よね)」とは、文字どおり、日本人の主食の「米(こめ)」であり、この国の人々の暮らしの根幹を支えるものであった。まさに、稲作農耕の「瑞穂の国」を象徴するものなのであり、そういう国に生まれた女子の名として、「よね」という名は、おそらく昭和まで生き続けた。

 

「お米(よね)」は、おそらくは、この「俺ら」と「愛ちゃん」との逢瀬めいたデートにもいい顔をしなかったはずである。時には、「愛ちゃん」の傍からずっと離れずにいる、というようなこともあったに違いない。「お米」からすれば、「愛ちゃん」は幸せにならねばならぬ。「お米」が望む縁談相手は、当然のことながら、親の資産のすべてを相続することになっている「太郎」でなければならなかった。「お米」の論理からすれば、「愛ちゃん」の幸せのために行動するのは、当然の帰結だったのである。

「出しゃばりお米に手をひかれ」ての愛ちゃんの嫁入り姿は、ある意味では、主家の娘の幸せを確信し、そのために行動した奉公人「お米」の堂々たる晴れ姿でもあったろう。

 

この歌が発表された昭和31年(1956)当時は、高度成長期(池田内閣の「所得倍増計画」の発表は、昭和35年)以前のことであったから、地方の農村部においては、次男坊以下の男子の多くは、生きていくためには、独り故郷を離れ大都会へ出て行くしかない時代だった。つまりは、農家の長男が結婚に難渋するというようなことは、まだあまりなかった時代であった。

「愛ちゃん」の嫁入り先は、「愛ちゃん」の家の論理としても、そして、愛ちゃん自身の論理としても、当然の事ながら、長男である「太郎」でなければならなかったのである。

そして、この歌の中の「俺ら」も、やがては故郷を捨て、おそらくは大きな不安の中で、大都会へと出て行ったのではなかったか―。

 

この歌の「愛ちゃん」が「太郎」の嫁になったのが18歳の時だったとするならば、「愛ちゃん」は現在74歳になっているはずである。

今頃「愛ちゃん」は、多くの子や孫に囲まれて、あの時「お米」が確信したように、おおいに幸せに暮らしているであろうと、私は思いたい。



オマエ長州か!表に出ろ

平成22年5月3日

今年も新学期が始まった。私は授業の学期始めには自己紹介を行うが、出身が山口であることを言う時が多い。

私の出身は、厳密に言えば旧長州であり、私の祖父の祖父までは、長州藩の武士であった。亡くなった親父などは、このことが生涯の誇りであったらしく、 酔えば必ず先祖や明治以降の士族階級の話に、時を忘れるように夢中になった。幼少年時代の私は、酔っては幾度となく繰り返される親父のこの自慢話が嫌いで はなく、何か心躍るような思いで聞き入ったものだ。幕末、明治維新における長州出身者の活躍は、郷里への愛着を植えつけるとともに、わが家の系譜もそこに 重なって、高校卒業後、郷里を旅立った私をずいぶんと勇気づけてもくれた。

この時期には毎年思い出すことがある。昭和49年(1974)の頃、東京に出てから大学3年の23歳前後のことであったろうか、私は、巣鴨駅近くにあるス ナックのようなところで、午後6時からホールのボーイのアルバイトを始めた。深夜の2時までの仕事だったが、昼間白山の大学にゆっくり通えるので自分なり に気に入っていた仕事だった。仲間には同じような苦学生が多く、その中に、神保町の大学に通うS君がいた。なんとなく無口でどこか寂しげな感じの青年だっ たが、深夜仕事がはけてから、朝方までやっている別の店に遊びに行ったりする不良の我々とは違って、仕事が終わったら真っ直ぐ帰っていたような記憶があ る。私も、特に親しく付き合ったりするような関係ではなかった。

ところが、である。そのS君が、ホールが暇なある時、
「河地くんは、出身はどこなの?」
と、私に話しかけてきたのである。むろん、私は、躊躇なく、
「ヤマグチケン」と言った。
その時であった。いつもは穏やかなS君が、突然血相を変えて、私の胸倉を掴んで叫んだのである。
「オマエ長州か!表に出ろ!」そして、面食らう私に、さらに、次の一言、
「オレは会津だ!」

私は突然のことに驚いたが、てっきりS君がふざけているものとばかり思った。しかし、その思いがまったく間違っていることを、その時のS君のすさまじ いまでの真剣な表情から、私はすぐに思い知るほかはなかった。彼は、本気で、私に「オマエ長州か!表に出ろ!」と叫んだのだ。

そして、その時から15年が経過した5月の連休に、私は東北方面を旅することにした。ひそかに、会津に行ってみたいという気持ちがあったのである。その時の私の胸中には、S君のふるさと、会津に行かねばならぬ、というせっぱ詰まった思いがあった。15年前の、あのS君の鋭い眼光と怒気を含んだ言葉とが、時の経過とともに、ますます鮮烈な記憶となって甦り、どうあがいても、私の脳裏から引き剥すことができなくなっていたからだ。

その時の会津は、5月の連休にふさわしく、青青とした快晴だった。私は、まず飯盛山の白虎隊の墓を訪れた。連休の谷間の平日ということで、さほど観光客はいなかったが、墓前には線香が数多く手向けられ、周辺はその煙で濛々としていた。誰もいないのに、線香の煙が充満していた印象が忘れられない。そして、会津市内に目を遣ると、そこに鶴ヶ城の天守閣が見える。彼らは、そこから白煙が上がるのを見て-事実は鶴ヶ城が炎上したのではなかったが-、もはやこれまでと覚悟して自刃したのだった。

そして、次に鶴ヶ城へと歩を進める。天守閣には白虎隊の面々の遺影が掲げられており、まさに「紅顔可憐の美少年」と歌われる、そのあどけない面影に心が痛んだ。

そして、次に訪れたのが会津の武家屋敷であった。その武家屋敷は、時の会津藩家老、西郷頼母邸を復元したものであった。その屋敷内の一角には、戊辰戦争(会津戦争)での敗北を知った西郷一族(婦女子)自決の場面が人形によって再現されており、特にいたいけな姫君が絶命していくところなど、誰とても胸が痛むものであった。とその時のこと、突然背後が騒然としたかと思うと、やがて遠足旅行の小学生の団体がやってきた。バスガイドさんの先導であったので、私は、場所を譲り、そのままガイドさんの説明を聞くともなく聞いていたのだが、その若く可愛いらしいガイドさんは、やがて会津戦争での会津の惨状を語りながら、ついに西郷頼母邸で起こった眼前の悲劇について語り始めたのであった。

そのガイドさんは、見事であった。会津の山河の美しさ、そのふるさとを踏みにじった官軍の暴挙、そして、ついに自決という道を選ばざるを得なかった会 津の女たちの潔さ―。ガイドさんの、時に憤り、時に涙にくれる、その哀しくも美しい名調子に聞き惚れていた私は、しかし、騒然としていた小学生たちが、や がていっせいに嗚咽の声をあげ始めたことに気がついたのであった。そして、押し殺すような彼らの嗚咽が、やがて怨嗟に満ち満ちた色調を帯びていくのを感じ た私は、そのまま、逃げるように、そっとその場を離れるほかはなかったのである。

昭和49年(1974)当時、巣鴨のとあるスナックで、「オマエ、長州か!表に出ろ!」と叫んで私の胸倉を掴んだS君が、小学校当時、会津武家屋敷で、こ のようにしてバスガイドさんの解説を聞いたかどうか、それを確認する術はない。しかし、S君は少年時代、こういった会津の歴史を知る遠足旅行の中に、間違 いなくいたに違いないだろう。

2010年、今年の連休は、鶴ヶ城でも桜が見られるようだ。会津戦争はもう終わっているのだろうか―。近ごろ無性にS君に会いたくなっている私なのである。



「ペーハッ」と「チャングン」、そして「コシタンタン」

平成21年7月14日

今年の春から韓国の歴史ドラマにはまっている。BS日テレの「テジョヨン」だ。7世紀の朝鮮半島の興亡史で、高句麗滅亡から渤海国の開祖となった太祚榮、テジョヨンの活躍を描くものだが、これがエンターテイメントとしては、一級品と言っていいドラマなのだ。手に汗握る面白さとは、まさにこういうドラマを言うのであって、高校生の息子もたまにこのドラマを見た時など、「天地人」もこういうのを少し参考にするといいね、と言うぐらいなのである。基本的に国の興亡を描くものだから、戦闘場面など、血なまぐさい場面も多いのだが、しかし、それはエンターテイメント、主人公のテジョヨンをめぐる恋もしっかりと描かれていて、見る者を飽きさせない。

ドラマは字幕スーパーで、韓国人俳優の肉声がそのまま伝わるのも興味深いものがある。何度もドラマを見続けているうちに、面白いもので、なんとなく韓国語がわかるような気がして、その中で、ある時、「ペーハッ」という言葉を覚えた。その時の字幕には、「陛下」と書かれてあり、皇帝陛下に謁見する時に、皇帝に対して臣下の発する言葉なのだ。その時、私は、突然胸騒ぎのようなものを覚えたのである。そうだ、この「ペーハッ」は、そのまま日本語の「陛下」なのではあるまいかと。さらに、注意して見続けているうちに、兵士が将軍に対して発する言葉が「チャングンッ」という言葉であって、これもまた、日本語の「将軍」という言葉にそのまま連続しているのであるまいか、と直感したのだった。

これはなんと興味深いことか、韓国語がそのまま日本語に入ってきているではないか―。この新発見の事件を高校生の息子にさっそく報告したところ、その反応は「…?」といった趣で、にやにやするばかり、なかなか飛びついてこない。そこでさらに新しい証拠を見つけるべく、このドラマを注意して見続ける私に、あ る時決定的な場面が飛び込んできた。登場人物が「敵は虎視眈々と狙っている」という場面で、彼ははっきりとそのしわがれた声で言ったのだ。「コシタンタン」と―。これこそ、決定的な証拠だ、私は録画の場面を再生して息子に見せながら、韓国語と日本語との濃密な言語関係を説いて見せたのであった。

さらに、このことをだれかれとなく言いたくなった私は、昭和女子大のクラスの中に韓国と中国の留学生がいるので、その授業で、このテジョヨンのドラマと「ヘーハッ」「チャングン」「コシタンタン」の例を紹介した。すると、韓国の学生も、中国の学生も、これらの言葉、もしくは近い言葉が自国のことばにある ことを教えてくれた。これらの言葉が、基本的に、中国語がその源であることにも気がついたのである。このテジョヨンなどを見ていると、唐と朝鮮三国-高句麗、百済、新羅とは密接な交流があったことが解るわけで、かつての中国と朝鮮半島との言語交流など当然のことであっただろう。

古代日本と朝鮮半島との濃密な関係からしても、これらの言語現象はむしろ当然のことと言えるかもしれない。言語を含めた文化の伝播は、中国→朝鮮半島→日本という構図を考慮しなければならないだろう。日本語研究のテーマとして、日韓比較対照は絶対的に必要とされるのではないか。若い人たちが、こうしたテーマにぜひとも挑んでほしいとつくづく思う。



草なぎクンの事件のこと

平成21年5月1日

4月23日(木)、スマップの草なぎクンが酒を飲み過ぎて失敗し、そのニュースで列島は大騒ぎだった。タレントとしても役者としても、根が善人そのものというキャラクターだったので、そのイメージとのギャップからよけい騒がれたようだ。しかし、たまには人間失敗もしたほうがいいのであって、彼は今回の事件というか事故で、さらに幅のあるスターに成長するだろう。

私なんぞは、酒の上に限定するだけでも、過去どれだけ失敗があったことか。開き直るわけではないが、基本的にすべてを受け入れていく主義からすれば、こういった失敗があったからこそ、今の自分があるとも言えるわけで、まさに失敗は成功のもとということなのだ。

それにしても、この草なぎクンの事件に対する二人の政治家の反応が面白かった。鳩山総務大臣は「最低の人間だ!」と凄みを利かせた発言で逆にひんしゅくを買ったが、石原都知事は「俺も裸になりたいときもある」とおおらかだった。私は政治家としての石原慎太郎は好きではないのだが、今回の態度を見て、彼がも ともと日本文学史に残る作家であり、文学者であったことを思い出した。

文学は、人間を正しく知ることにつながる道であるが、自覚の有無に関わらず、人間には、「光」もあれば「影」もある。優れた文学や映画は、そういったことを我々に教えてくれるし、また豊かな人生体験もそういったことを自然と学ばせてくれるものだ。

文学世界に周遊するものからすれば、今回の草なぎクンの事件など、別段驚くほどのものではなく、ましてや目をぎらつかせて「最低の人間だア!」と喚きたて るようなことなどではさらさらない。そして、飲み屋で怪気炎を挙げ、それこそ豊かな人生を楽しんでいるおじさんたちからすれば、草なぎクンの失敗など、程 度の差こそあれ、過去の自分自身を見るようでもあり、同時に、愛嬌ある人間の偽らざる姿の一つを見たに過ぎないのだ。

人は、他人の失敗に何か救われたような気分にもなるものだが、それは、そこに不完全な自分自身の姿と、同時に、愛すべき人間の真実の姿が重なって見えるからだ。およそ「影」を持たない人間や人生などあり得ない。完璧な人間など、なにか嘘くさいではないか。

5月1日(金)、草なぎクンの不起訴処分を、東京区検が決定、というニュース。それにしてもこの決定だが、こんなに時間がかかるようなことかね。