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王朝文学文化研究会 


文学文化舎


講義余話

「倭」からの脱却-中央集権国家と国号(一)

 

「ヤマト」と「倭」

私にとって、この国のはるか古代のことは、まるで雲をつかむような話で、そのうえ百花繚乱の古代史学の世界には立ち入ろうとする勇気もないし、また技量もない。ただ、この国を知るうえで、可視的なところについては、しっかりと押さえておかなければならないという思いは強い。それは、今日文献に残されている“言葉”を手掛かりとすることで、ある程度は明らかになる性質のものであろうと思う。

 

古代、人々はこの列島のことをどう呼んでいたのか、ということを考えるのは楽しい。“この列島”とは、九州、四国、本州の西側三分の二程度の地域、および付随する島々を意識している。そして、この場合の“人々”とは、二通りに分けて考えねばならない。一つは、この列島の外(東アジア=中国大陸・朝鮮半島)に住む人々であり、もう一つは、むろんこの列島に住む人々である。

 

外国からの“呼称”については、古代中国の多くの史書に書かれているように、表記としては「倭」であろう。例の「金印」にも「漢委奴國王」(「委」は「倭」の略字)という刻印がある。だから、外国では、この列島のことを「倭」と表記し、そして、その表音は「ワ」であっただろう。従って、この列島を「国」と捉える場合には「倭国」、そこに住む人間は「倭人」などと書き、さらには、「ワコク」「ワジン」と言ったに違いない。

その“表記”としての「倭」が、いつのころから「日本」に変わったのか、ということを考えたいのだが、その前に、この列島に住む人々は、“倭国”当時、自分の国のことをどう呼んでいたのか、という問題がある。これは、まず“表音”(口語)の次元のことである。

 

そもそも、はるか古代においては、いわゆる“国家”というようなものはなく、広い意味での“家”や“氏族”そして、それらが集まったコミュニティーとしての“ムラ”、そのムラの連合体としての“クニ”が、列島の各地にあったにすぎない。古代中国の歴史文献では、この単位を「邪馬台国」「奴国」のように、「国」と表記したものと思われる。

そういう“国々”が、いつの頃からか、戦いや合従連衡を繰り返し、結果として、現在の奈良盆地である「大和」(ヤマト)を拠点とする“王朝”が、強力な覇権を得ることとなった。

 

「大和」(ヤマト)という言葉は、むろん“大和言葉”である。語構成から言えば、「ヤマ」と「ト」であって、「ヤマ」は「山」(ヤマ)、「ト」は“場所”を示す「所」(ト)と思っていい(「臥所(フシド)」「背戸(セド)」等)。

この「大和」を拠点とする王朝(大和朝廷)は、もともとは、九州の「日向」地方にいた。しかし、どういう理由があったかはわからないが、神話において「神倭磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)」(神武天皇)と呼ばれる人物の時代に、傷つきながらも、「大和」に来たのである(神武東征)。

「日向」から瀬戸内海を経て、やがて「大和」に到着した時、彼らは、思わず、その土地を「ヤマト」と呼んだか、あるいは、もともと「ヤマト」と呼ばれていたのかもわからないが、穏やかな「山」が幾重にも折り重なる景観に、おそらく安堵の思いを得たことであろう。

夜麻登波 久尓能麻本呂波 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母礼流 夜麻登志 宇流波斯                         
(『古事記』・中巻)

(倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山籠れる 倭し うるはし)

これは、ヤマトタケルの望郷の絶唱だが、この思いは、ひとりヤマトタケルだけの感懐ではなかったに違いない。

 

おそらく、列島の各地に拠点を持っていた各王朝も、この大和盆地の王朝のことを「ヤマト」と呼んだに相違ない。やがて、この「ヤマト」が、列島を代表する王朝となり、国内においても、「ヤマト」を「倭」と表記するようになったと思われる。つまり、国内外とも、表記としては「倭」を用いた。さらに、大和盆地から大きく版図を拡大した「倭」は、「大倭」とも表記されるようになった。それでも、表音としては、国外では「ワ」であり、国内では「ヤマト」であったことは言うまでもない。

 

「倭」から「和」「大和」へ

ところで、東アジアからの呼称である「倭」であるが、なぜこのような漢字を当てたのか、ということを考えるとおもしろい。

「倭」とはどのような意味を持つ漢字なのだろうか。『大漢和辭典』(大修館書店)には、「倭」の意味として次の4項目が掲げられている。

  1. したがうさま
  2. 廻って遠いさま
  3. 「委」に通ずる
  4. みにくいさま

これによると、従順でへりくだるという意味もあるが、醜いという意味でも使われたことがわかる。やはり、このあたりが、やがてヤマト側がこの語の使用を避けるようになった遠因であろう。そういう意味では、もともとこの漢字(倭)を、海を隔てた“列島”に適用したのも、大陸中心部からその周縁部を一段下に見る意識(中華意識)の表れだったのかもわからない。「人」偏に「委」という構成から推測しても、「委」は、ゆだねるとか、身をかがめるとい意味を持つので、やはり、列島に対する中華意識の反映とみたほうがいい。

 

同じ「ワ」と訓む漢字なら、「倭」ではない別の漢字の方がいいということになったのか、あるいは、「倭」は総画が多すぎて煩わしいと感じたのか、とにかく別の漢字の「和」に替わった。これは、表音としては、「倭」と同じであったが、意味は違う。「醜い」というような意味はない。

ただ、「倭」を従順でへりくだるというような意味に取るならば、物腰の柔らかい感じの「和」にも通ずるように思われるが、やはり、「倭」を嫌って「和」と書くようになった、と考えるのが自然なのではあるまいか。

従って、国内での表記は、「倭」から「和」「大和」に替わった(「倭」がなくなったわけではない)のだが、国外においては、相変わらず「倭」(ワ)であったと思われる。たとえば、今でも日本や日本人のことを快く思わない中国や朝鮮半島の人々は、日本のことを「倭」や「倭人」という言葉を用いることがあるが、やはり、この漢字そのものが、一種のマイナスイメージを有しているからではないかと思われる。

この列島の“国家”は、これを何としても、“替えたい”と切望したのではないか。そこで、どのような論理と手段を用いて、「倭」からの脱却を図ったのか、ということになる。それは、当然のことだが、国際社会(東アジア)において、強く発信されなければならない性質のものであった。

むろん、それは、国際社会における国家努力として行われるべき性質のものであり、「倭」からの脱却は、この列島が、いわゆる“中央集権国家”として出発した当時のこととしなければならない。

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