河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



講義余話

伊勢紀行(一)

 

荒魂(あらたま)と和魂(にぎたま)

平成28年の王朝文学文化研究会の探訪旅行は、伊勢ということになった。式年遷宮が平成25年で、そのころから、遷宮後には行こうと話していたが、それからすでに三年の月日が経過した。

参加したメンバーは、けっして若い人ばかりではなかったが、比較的初めての人が多かったのは、やはり、現代もなお、神宮への参拝は、関東方面からは行きにくいということなのであろうか。

 

ところで、私が初めて神宮を訪れたのは、50年ぐらい前のことで高校に通っているころだった。当時、大阪上六で食堂を経営していた長兄のところに遊びに来ていて、なんとなく無聊風情の弟に、長兄が、突然「伊勢にでも行ってきい」と言ったのだった。食堂の前にある上本町駅からは、伊勢まで一本だった。当時はまだ、上六(上本町)が、近鉄の始発ターミナルだったのである。

神宮近くの駅で降りて、なんとなくこの方角だと思って歩いたら、すぐに広大な神社があった。お参りをして、その帰り、このままではあまりにもつまらない気がして、志摩半島にまで足を伸ばした。地図で眺めた海岸線をぶらぶらして、いざ帰ろうとしたら、義姉が渡してくれた金では足りなかった。おかげで、自分が持っていたなけなしの小遣いまでもがなくなった。だから、その時のことは、けっしていい気分ではなかったのだが、その気分は、長兄に帰参の報告をした後、さらに救い難いものとなった。

長兄は、目を細めて、どうだ、お伊勢さん、よかったか?というようなことを聞いたが、私は、どう答えたかは、記憶にない。ただ、その時にある記憶は、長兄との会話の結果、私は、実は外宮にしか行っておらず、肝心の内宮には行かなかった、という苦い思い出だけが残ったのである。後に、『徒然草』にある「すこしのことにも、先達はあらまほしきことなり」という名言が心にしみたのは、間違いなく、この時の体験があったからと思われる。

内宮正宮

 

 

 

 

 

 

 

 

内宮正宮を階段下から望む

 

 

ところで、伊勢神宮の内宮と外宮とは、むろん、内宮が本来のものである。だから、時間がなければ、内宮の参拝だけでも、その目的は十分に達成しうる。なぜなら、天照大御神―アマテラスを祀っているのが、内宮だからである。外宮は、豊受大御神という神を祀るもので、それは、天照大御神の食事を司る神だと言われている。内宮と比べると、その鎮座の時代はかなり後世ということになる。

余談ながら、私の先輩に、伊勢の皇学館大学の文学部長まで務められた島原康雄氏がおられる。今は隠居しておられるが、過去は、学生を連れて伊勢を訪れるときにはいつでも知らせろ、ということだったので、その都度差し入れなどを頂いていた。ある時、みなで夕食を食べているときに、学生たちへ、内宮・外宮の参拝の順序について話してもらおうと思い、

外宮から内宮へと参拝順が決まっているようですが、なにか理由でもあるのですかねえ?

と、話しを振ったところ、島原氏は、

順序なんて、関係あらへん、どっちでもかまへんよ、

と、一笑された。氏らしいユーモアでもあるが、たしかに、内宮よりはずいぶんと遅れて外宮は鎮座したのであり、もともと、それらの参拝の順序などというものには、合理的な理由などはないのである。

 

内宮は、その祭神がアマテラスであるから、これは、その言葉の本来的な語義どおり、太陽である。太陽は、人間を取り巻く自然現象の窮極の存在であって、この自然現象の特徴は、あらゆる生きもの、あらゆる世界に、その作用を及ぼすということであろう。

太陽に限ったことではないが、自然というものは、あらゆる生き物に恩恵を施している。まさに、その慈しみのあり方は、「和魂(にぎたま)」と呼ぶにふさわしい。しかし、自然が、常に「生きとし生けるもの」に、慈悲の恩恵を与えるとは限らない。自然は、時に、おそろしい牙をむいて荒れ狂う時があるからである。そういう自然のもう一つの凶暴性を人々は怖れ、それを「荒魂(あらたま)」として祀り、深く崇敬もした。

内宮の神域で、正宮を目指して行く手前の左に、「荒祭宮(あらまつりのみや)」という「別宮」が祀られている。この「荒祭宮」の祭神もまた、正宮に祀られている天照大御神である。ここには天照大御神の「荒御魂(あらみたま)」が祀られているのである。正宮の天照大御神が、いわゆる「和魂(にぎたま)」であることは言うまでもない。

内宮別宮荒祭宮

 

 

 

 

 

 

 

 

内宮別宮荒祭宮

 

 

この「和魂」と「荒魂」の対照は、たとえば、日本列島の各所を流れる河川を見ても分かるであろう。ふだんは、農業や生活用水のみならず、景観面や川遊びでも人々を十分に楽しませてくれる河川が、たとえば毎年のように繰り返される集中豪雨では、まさにその穏やかな表情を一変させ、凶暴な牙を剥いて、人々の生活を破壊するのである。遥か太古の昔から、人々は、このような自然を神として崇め、怖れ、畏敬したのであった。

伊勢内宮は、皇祖神として天照大御神を祀るものではあるが、その原点は、自然の慈悲の最たるものとしての太陽神への報謝と畏敬の顕現であることを忘れてはならない。

―この稿続く―

 

2016.9.10 河地修

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