河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



講義余話

仁和寺にて―光孝、宇多天皇のことなど

 

仁和寺の境内は、広々としている。二王門をくぐると、まず中門までの空間が大きく空に向かうように広がっている。そこから奥の金堂のあるところまでは、さらに広大な空間が展開し、その間の左右にある観音堂と五重塔が目立たないくらいである。観音堂のすぐ下には、有名な御室桜(おむろざくら)がまとまって植樹されているが、それでなくとも丈の低い桜は、境内の規模の大きさに埋没するようで、その存在は質素な印象である。とにかく、この仁和寺の伽藍は、堂々たる風情と言っていい。

 

仁和寺境内 仁和寺境内。中門から金堂方面を望む


仁和寺は、その名のとおり、仁和四年(888)に創建された。創建した人物(開基)は宇多天皇と言うべきだろうが、発願じたいは、父の光孝天皇であった。つまり、勅願寺ということになる。

光孝天皇は、元慶八年(884)に譲位した陽成天皇の後を襲って即位した。陽成は、時の摂政藤原基経により譲位に追い込まれたが、光孝はその後継として、基経から指名されたのである。

光孝は、本来皇統を継ぐ立場とは言い難かった。譲位した陽成の子でもなければ弟でもなかったのである。光孝は、陽成からさかのぼること三代前の仁明天皇の皇子であった。親王ではあったが、中務卿、式部卿、太宰帥、常陸太守、上野太守と、皇族官僚としての道を歩んだ。そして、ついに一品に叙せられたことからして、おそらくは、地味ではあるが、そのまま親王として順風過ぎる生涯を閉じるはずであった。

しかし、五十五歳の時、その人生が一変したのである。光孝本人も、自身の即位は予想外のことだったようで、次の皇位継承者(皇太子)の候補には、自分の子を最初から除外するという意図のもと、全員を臣籍へと降下させた。むろん、その中には、次に即位した宇多天皇も含まれていた。このことは、おそらく、自身の子を皇太子候補から外すことで、危険きわまる後継争いから子どもたちの身を守ろうとしたのであろう。あるいは、基経にひたすら従順であることの姿勢を示そうとしたものとも思われるが、しかし、結果として、基経は、次の天皇に光孝の子である宇多を指名した。基経には、よほど皇位に就けたくない候補が、他にいたということになるのだが、このことは、今は措く。

 

光孝が即位した元慶八年(仁和への改元は元慶九年)、光孝はすでに五十五歳であり、当時としては老齢であった。その光孝は、仁和二年(886)十二月十四日、山城伏見の芹川で鷹狩を行っている。世に言う芹川野行幸だが、時に光孝は五十七歳であった。そして、この時の行幸に供奉した臣下に在原行平がおり、その行平が和歌を献上した。その時の歌が『後撰集』に載せられている。

翁さび 人なとがめそ 狩衣 今日ばかりとぞ 鶴も鳴くなる

(私がいかにも年寄りじみているので、そんな私をみなさんお咎めくださいますな。今この狩り場にいる鶴も今日限りの命だと鳴いているようです、その鶴と同じこと、この狩衣を着てお供する私も今日が最後でございますから)

この年行平は六十九歳であり、自身が老齢故、その鷹狩への供奉について「翁さび」と詠ったのだが、実は、この時光孝はそれを自分のことだと思って機嫌が悪かった、という話が『伊勢物語』の「第百十四段」に語られている。光孝天皇は、この翌年の仁和三年(887)八月二十六日に崩御しているので、おそらく、『伊勢物語』の話が本当だとすれば、この時光孝は、自身の「老い」について敏感に反応する時期にさしかかっていたものと思われる。

光孝は、老いを迎えた人物が誰でも願うように、極楽浄土への旅立ちを希求したのであろう。この頃は、極楽浄土には誰もが行けるという、いわゆる後の浄土信仰が流行する時代にはまだ遠かった。人々は、ひたすら勤行や仏道修行に専念することを迫られたのである。そのために、光孝は、自身の発願による寺の創設を志した。それが後の仁和寺ということになる。

光孝は、しかし、その発願成就の前に崩御した。それを受けて、急遽臣籍から皇族へ復帰し即位したのが宇多天皇であった。宇多は、光孝の発願を受け継ぎ寺院を完成させるに至るが、時の年号からその寺院を「仁和寺」と号したのである。

宇多は、父である光孝の、小心過ぎるほどの藤原基経への遠慮というものをよく熟知していたのではないか。基経なくして光孝の天皇即位はなく、当然のことだが、その子である宇多の即位も、基経なくしてはなかった。宇多の皇位継承の手続きも、源貞省(みなもとのさだみ)という臣下の身分から親王宣下を経て親王、立太子、そして天皇即位へと離れ技で行われたが、すべて基経の力によるものであった。基経に対して、鷹の前の小鳥のように、基経を宇多が懼れるのは当然のことであったであろう。そういう宇多の小心に付け入ったのが、いわゆる「阿衡の紛議」というものだが、基経は、宇多の即位にあたって、その地位は自分の力によるものであることを思い知らせようとしたのであろう。このことは、基経亡き後、逆にそれらへの反動として、宇多が強力に親政を進めることにもなったし、さらには、北家以外の政治家、菅原道真の積極登用にも繋がった(『王朝文学文化史断章』「道真の悲劇」)。

 

ところで、日本文学文化史における光孝、宇多天皇親子の役割は大きい。一言で言えば、この国の歴史において、和歌が天皇のもとへ回帰する端緒を切り開いたということである。つまり、和歌は、ある一時期天皇から乖離していた時期があったのである。

十世紀初頭までの和歌の歴史については、『古今和歌集』「序」に明解に述べられている。特に「仮名序」において、「この歌天地の開けはじまりける時よりいできにけり」とあるように、和歌はこの国の起こり(天地開闢)とともにあったと言うのである。そして、その最隆盛期は、平城天皇時代(806~809)に成立した『萬葉集』にあるという認識を明確に示しているのだが、しかし、その後、嵯峨天皇(809年即位)の唐風謳歌の時代を迎えて、「その後和歌棄てて採られず」と「真名序」にあるように、和歌は漢詩に取って代わられ衰えたのであった。

このように、平城天皇から醍醐天皇までのおよそ百年間、和歌史は大きな空白期を持つこととなったのが、その醍醐の直系の祖父と父が、光孝、宇多天皇なのであった。醍醐天皇の『古今和歌集』撰進事業の前に、光孝天皇の芹川野行幸における献上歌の事例、そして、宇多天皇時代の後宮内における歌合の隆盛等を考えれば、この二人の存在が『古今和歌集』誕生の端緒を拓く契機となっていることはよくわかるであろう。

ちなみに、光孝は、その親王時代から和歌に親しんでいたことが、次の『古今集』に載せる二首の歌でよくわかる。

仁和のみかど、親王におはしましける時に、人に若菜賜ひける御歌

(光孝天皇が親王でいらっしゃった時に、人に若菜を下さった時の御歌)

君がため 春の野にいでて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ(古今集、春上)

(あなたのために春の野に出て若菜を摘んでいる私の衣の袖に雪が降りしきっていることだ)

『古今集』「春上」に載せる歌で、『小倉百人一首』にも採られているので、国民的な和歌と言ってもいいが、光孝天皇の親王時代とはいえ、「若菜」を下さる「人」は、「賜ふ」という尊敬語の性格からして、身分的には明らかに下位者と言わなければならない。そういう優しさが光孝にはあったのであろう。心優しさは同時に心弱さでもあったが、そのような人物像は、天皇となっても変わらなかったものと思われる。

仁和の御時、僧正遍照に七十の賀賜ひける時の御歌

(光孝天皇の御代、天皇が僧正遍照のために七十歳の祝宴を下さった時の御歌)

かくしつつ とにもかくにも 永らへて 君が八千代に 逢ふよしもがな(古今集、賀)

(このように祝宴を設けあなたの七十の賀を祝っているが、私も、なんとかしてこの先生き永らえて、あなたの八十の賀の祝宴にめぐり逢いたいものだ)

僧正遍照の七十の賀を光孝天皇が主催して祝ったのは、仁和元年(885)十二月十八日のことであった。和歌の天皇であればこそ、遍照に七十の賀を「賜」うたのであり、心優しい光孝にふさわしいエピソードと言える。

光孝は、やがて仁和三年(887)八月二十六日に崩御したが、その八十の賀を祝いたいと詠わしめた遍照も、その三年後、八十歳を迎えることなく没した。六歌仙の一人に数えられる僧正遍照も、その僧正遍照を支援した光孝天皇もまた、『古今和歌集』の「古」の時代(九世紀の和歌の時代)を支えた人物であったとは言えるだろう。

 

2017.04.07 河地修

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