河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



講義余話

仁和寺にて―「御室」のこと

 

仁和寺から帰った翌日、いつものように、十六夜会の会員諸氏と『源氏物語』を読んだ。その会員のなかに、京都出身のご婦人がおられる。私が、仁和寺境内の「御室桜」の丈の低さに言及したところ、その方は上品な笑顔を浮かべて、次のようなことを話された。

子供の頃、どなたかのお見合いの時のお話を伺った記憶がありますが、仲人のような方が、先さまのお嬢さまのことを、「なかなかの別嬪さんだが、御室の桜でしてなぁ・・・」などと、おっしゃっていたことを覚えています。

つまり、「御室の桜」とは、背が低いのが難、ということのようである。しかし「御室の桜でしてなぁ」という言い方には、なにか無性に愛嬌のようなものが感じられる。また一説には、ダジャレだろうが「花」が低いということで「鼻」が低い女性のことも言うらしい。ただ、背が低いのも、鼻が低いのも、日本女性の伝統的な特徴のようでもあり、なんとも京らしい上質なユーモア表現ではあるまいか。ともあれ、仁和寺の「御室桜」は、京の名所になるほど美しいものには違いない。

 

御室桜 御室桜。遅咲きの桜だが、低木である


ところで、「御室桜」と言う場合の「御室」であるが、これは、仁和寺がある一帯の地域を指す言葉である。たとえば、仁和寺の正面にある京福北野線の駅名が「御室仁和寺」(もとは「御室」)であって、仁和寺の存在する住所じたいが、右京区御室大内と言うのである。

しかし、この「御室」という言葉は、もともと貴人の住まいを言う言葉であった。「おむろ」とも「みむろ」とも言う。「御室」の「御(お)(み)」は敬称の接頭辞であり、「室(むろ)」は、「氷室(ひむろ)」などと言うように、物を籠め置く部屋のことである。転じて、僧が修行する空間や建物なども言うようになり、それが貴人の場合、「御」という尊敬の接頭辞を付けて、「御室(おむろ・みむろ)」と言うようになったのである。むろん、大和言葉と言わねばならない。

 

貴人の僧坊を言う例としては、『伊勢物語』「八十三段」が初出かと思われる。いわゆる「惟喬親王章段」と呼ばれるもので、惟喬親王は、文徳天皇の更衣、紀名虎の娘静子が産んだ親王であった。第一皇子でもあり、文徳天皇即位に伴って、皇太子の期待が高まったが、同じ文徳天皇の女御、藤原良房の娘明子(あきらけいこ)が惟仁親王(後の清和天皇)を産んだことで、その立太子争いに破れた悲運の親王とされる。

『伊勢物語』「八十三段」は、その惟喬親王と在原業平との交流、そして親王の出家を語る章段である。その章段後半は、突然出家し比叡山麓の小野に棲む親王を、正月元日の雪の中、在原業平が訪問するくだりを描き、業平の和歌とともに、名場面として知られている。

かくしつつまうで仕うまつりけるを、思ひのほかに、御髪おろし給うてけり。睦月に拝み奉らむとて、小野にまうでたるに、比叡の山のふもとなれば、雪いと高し。強ひて御室にまうでて拝み奉るに、つれづれといともの悲しくておはしましければ、やや久しくさぶらひて、いにしへのことなど思ひ出で聞こえけり。さてもさぶらひてしがなと思へど、おほやけごとどもありければ、えさぶらはで、夕暮れに帰るとて、

  忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪踏み分けて君を見むとは

とてなむ泣く泣く来にける。

(このような毎日を送りながらお仕え申し上げていたのだが、親王は、思いもかけないことに、突然出家なさったのであった。正月に拝謁申し上げようとして小野に参上したのであったが、そこは比叡山の麓であったので、雪が高く降り積もっている。無理に御庵室に参上して拝謁申し上げると、親王は、所在ない様子でとてももの悲しくていらっしゃったので、少し長く伺候して、昔のことなど想い出しお話申し上げたのだった。そのままずっとお側にお仕え申し上げたいものだと思うけれども、朝廷での正月の公事などもあったので、お側にいることも叶わなず、夕暮れには帰るということで、

  このつらい現実を忘れて、夢のように思われます。思いもしないことでした、
  この雪を踏み分けて、あなた様にお会いすることになろうとは

と詠って、泣きながら都に帰ったのだった)

惟喬親王が出家したと伝えられる小野の「御室」址の特定は難しいが、もしも、その場所がそのまま寺院となって発展していれば、あるいは、そこが後世「御室」という地域名になっていたかもわからない。というのも、現在の仁和寺周辺が「御室」という地域名になったのは、宇多上皇が出家し、仁和寺境内に「僧坊」を営んだからなのである。出家はしたが、あくまでも上皇(太上天皇)であったから、その場所は、上皇御所(後院)としての扱いであった。

仁和寺二王門から境内に入ると、そのすぐ左手に「御殿」と呼ばれる区域がある。仁和寺は、基本的に拝観料は取らないが、そこは有料で拝観することになっている。仁和寺の説明によると、宇多天皇の僧坊があった辺りだと言う。従って、御殿は、庭の佇まいも建物群も、なんとなく京都御所の雰囲気に通ずるものがあって、そのいずれもが格調高い。

仁和寺の場合、このように、光孝天皇の勅願、宇多天皇の創建、さらに、出家後の宇多が居住したことによる「御所」でもあったことが、後の寺の性格を決定づけた。すなわち、その後代々の住職が上皇や親王であるという「門跡寺院」の誕生であった。

 

「門跡」の標札 御殿玄関口に掲げられる「門跡」の標札


『源氏物語』「若菜」巻は、朱雀院の出家のことが語られるが、その朱雀院は、史上実在の朱雀天皇(923~952)を意識した書き方がなされている。実際の朱雀天皇の在位は、延長八年(930)から天慶九年(946)までの間で、譲位後の天暦六年(952)三月に出家、四月に仁和寺に遷御したが、ほどなく崩御している。

実は、『源氏物語』の朱雀院も、出家後、仁和寺に居住したかのような書き方がなされているのである。物語では「西山なる御寺造り果てて」とあって、西山に新しく寺院を造ったと読み取れるが、あるいはこれは、出家した朱雀院のため仁和寺境内に「御室」を造ったというような趣なのかもしれない。玉上琢哉博士は、「この「西山の御寺」は、今の仁和寺と考えてよい」と述べておられる(『源氏物語評釈』)。

このように、仁和寺は、その創建時より天皇、上皇ゆかりの寺院として存在しているのであって、そのことによる格式の高さが、時に仁和寺の僧たちに、誇りや矜持を持たせしめたであろう。しかし、これらが必要以上に強くなれば、当然のことだが、社会から無用の反撥も受けたのではなかろうか。たとえば、鎌倉末期に成立した兼好法師の『徒然草』は、当時の「仁和寺の法師」の烏滸(おこ)ぶりを活写して面白いが、兼好からすれば、「門跡」を鼻にかけた仁和寺の僧たちの高慢性が、なんとも鼻持ちならなかったのではないかと思われもする。

ともあれ、門跡寺院としての仁和寺の格調高さは、境内の広大さや「御殿」だけではなく、その奥にある金堂を眺めてもよくわかる。この金堂は、江戸期、内裏の紫宸殿を移築した建物であることを知れば、それもまた、納得のゆくものには違いない。

仁和寺金堂 仁和寺金堂(国宝)。元は内裏(現京都御所)の紫宸殿


 

2017.04.24 河地修

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