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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



講義余話

「京都御所」考(二)

 

内裏の再建と復古の思想

兼好法師の『徒然草』は、鎌倉末期の成立である。よく中世文学を代表する随筆と言われるが、言うまでもなく、兼好法師自身は、山城の地(京都盆地)に生まれ、そこで暮らし、死んでいった。つまり、いわゆるこの国の「都」に生きた人であった。

平安京は、むろん、幾多の災害や天災に見舞われ、その都度、都市としての景観は変遷したが、王城の地であることは、延暦13年(794)から明治2年(1869)までの千年余り、基本的に動かなかった。

平安時代とは、平安京遷都の時から鎌倉幕府の成立までを言うが、「平安京時代」と言った場合、当然のことだが、天皇と朝廷機能が「東京」に遷る明治2年まで、それは続いたのである。だから、兼好法師自身は、たとえば、現在の我々が言うように、「中世」に生きている、というような認識があったかどうか。おそらくは、ごく自然なことのように、平安朝の王朝人のまま生きていたものと思われる。

その『徒然草』の中に、「今の内裏作り出だされて」で始まる次のような章段(33段)がある。

今の内裏作り出だされて、有職の人々に見せられけるに、いづくも難なしとて、すでに遷幸の日近くなりけるに、玄輝門院御覧じて、「閑院殿の櫛形の穴は、まろく、縁もなくてぞありし」と仰せられける、いみじかりけり。

これは、葉の入りて、木にて縁をしたりければ、誤りにて、なほされにけり。

(新しい内裏が造営されて、有職の方々にお見せになられたところ、どこにも問題はないということで、遷幸の日も近くなった時に、玄輝門院が新内裏を御覧になって、「かつての閑院殿の櫛形の穴は、まるく、縁もなかった」と仰せになられたのは、まことに畏れ多いことであった。

今の内裏の櫛形の穴は、切り込みが入っており、木で周りに縁を作っていたのだが、これは誤りであって、お直しになられたのであった。)

ここで言う「今の内裏」とは、文保元年(1317)に造営された「二条富小路内裏」のことである。これを「有職の人々に見せられけるに、いづくも難なし」とは、この内裏の造営にあたっては、かつての「閑院殿」(閑院内裏)を模して造営され、それが忠実に復元されているということだったのであるが、しかし、「玄輝門院」(1246~1329)が「御覧」になったところ、清涼殿と殿上の間との間にある窓の形状について、自分の記憶とは異なるということを指摘して、その「誤り」を直された、というエピソードなのである。

玄輝門院は、二条富小路内裏造営の時は72歳という高齢であり、閑院内裏は、その58年前(1259年)に焼失していたので、実に、当時14歳までの記憶によって誤りを正したということになる。驚くべき記憶力であって、兼好法師が「いみじかりけり」と称賛する所以がここにある。

この「閑院内裏」とは、里内裏の代表的なもので、平安時代末期から鎌倉時代中期まで使用された。「閑院」とは、もとは藤原冬嗣の邸宅に名付けられた名称であって、そこが里内裏として使用されるとともに、鎌倉時代初期には、本来の内裏を復元するかたちで整えられていた。すなわち、「閑院内裏」は、平安京の内裏として再建されたのであり、王朝貴族にとっては、復古の象徴と言ってもよかった。

閑院内裏は正元元年(1259)に焼失し、その後、その復元として花園天皇の文保元年(1317)、二条冨野小路に、『徒然草』で言う「今の内裏」が造営されたのである。従って、この「今の内裏」は、ここでも述べられているように、「閑院内裏」を忠実に復元したものであって、まさに王朝貴族文化の正統を受け継ぐ「里内裏」だったのである。

ところで、天皇親政を強力に復活させようとした後醍醐天皇が、いゆゆる「建武の親政」の政令を発布したのは建武元年(1334)のことであったが、その場所が、この「二条富小路内裏」であった。王政復古宣言の場所が、この王朝貴族文化の正統を受け継ぐ二条富小路内裏であったことは興味深いものがある。しかし、周知のとおり、建武三年(1336)の南北朝動乱の戦火により、この内裏は焼失、その後、ついに再建されることはなかった。 

この『徒然草』の章段の短い叙述からは、当時の王朝人たる兼好法師が、「閑院内裏」―「二条富小路内裏」という「内裏」の正統な系譜に注目していたことがわかるのではないか。だからこそ、「玄輝門院」の一見些細に見える窓の形状の指摘についてのエピソードを、彼は『徒然草』に収録したものと思われる。おそらく、「いみじかりけり」という兼好法師の詠歎は、単に、玄輝門院の記憶力に対してのみのものではなかったに違いない。『徒然草』を考える場合、作者「兼好法師」が、正統な王朝人であるという視点を抜きにしては考えられない作品であると言わなければならない。

ちなみに、後醍醐天皇(南朝)の内裏として使用された「二条富小路内裏」が焼失した後は、むろん、平安京は北朝の時代であって、内裏は「土御門東洞院殿」と呼ばれる里内裏が用いられた。現代の京都御所は、この「土御門東洞院殿」を継承したもので、この一帯が、広く藤原北家の邸宅跡に相当するものであることはすでに述べたとおりである。

この里内裏も、過去何度も炎上焼失を繰り返したが、時の武家政権によって再建されている。特に、江戸幕府老中松平定信の指揮による再建(寛政二(1790)年)は、平安朝の様式を復元させており、まさに王朝の復古の象徴としての存在であった。

現在の京都御所は、この寛政二年造営のものが焼失した後、安政二年(1855)に、それを忠実に再現したものである。そういう意味では、「京都御所」とは、その時々の「復古の思想」によって、実に、千年の時を経つつ継承された王朝貴族文化の精華と言っていいだろう。

京都御所、紫宸殿
京都御所、紫宸殿。紫宸殿は、内裏の正殿にあたり、宮中行事の中でも、重要な格式ある儀式が執り行われた。建物から南に向った庭の手前の左右に「左近の桜」、「右近の橘」が植えられている。天皇の警護として、左右の近衛府の武人がその辺りに控えたので、そういう名称がある。

 

清涼殿
京御所、清涼殿。清涼殿は、天皇の日常の住居となった御殿。しかし、やがて通常の儀式は、ここでも行われるようになった。なお、清涼殿は東面するが、現在の京都御所の清涼殿と紫宸殿との位置関係は、「内裏図(陽明文庫)」に徴するに、平安時代の内裏における位置関係と変わらない。

 

2017.09.23 河地修

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