河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-源氏物語講話-

第18回
大い君の死について(七)


「招婿婚」(通い婚)社会における「紫上」―零落する「家」の系譜

一方、「若紫」巻に登場する紫上は、この母系制社会における立ち位置はきわめて危うかったと言える。王朝物語世界では、そのようなヒロインこそが主人公に救出されサクセスヒロインとして描かれてゆくものであって、そういう意味では、物語の常道をゆくストーリーではあるのだが、しかし、現実の貴族社会では、リアルな問題としてきわめて深刻な状況を露呈していたのであった。

紫上が初めて登場する「若紫」巻では、紫上の、いわゆる「家」の状況 が正確に語られている。それは、光源氏の「垣間見」を通じて語られる「北山」の場面、紫上の祖母の尼君の言葉にもあった。

祖母である尼君は、稚ない紫上の髪をかき撫でながら、次のように言う。

「いとはかなうものしたまふこそ、あはれにうしろめたけれ。かばかりになれば、いとかからぬ人もあるものを。故姫君は、十ばかりにて殿におくれたまひしほど、いみじうものは思ひ知りたまへりしぞかし。ただ今おのれ見捨てたてまつらば、いかで世におはせむとすらむ」

(ほんとに稚なくていらっしゃるのが、なんとも心配でならないことよ。これくらいのお歳になれば、これほどまで幼くはない人もいるのに。亡くなられた姫君は、十歳ほどでお父様に先立たれなさった時は、もうちゃんと物事の意味はわきまえていらっしゃったよ。今すぐにでも私があなたを残して死んでしまったならば、あなたはどうやってこの世の中を生きてゆかれるというのであろうか)

この祖母の言葉のうち、「故姫君は、十ばかりにて殿におくれたまひし」とある「故姫君」とは、紫上の母であって、また「殿」とはその父親である。つまり、紫上の母はすでに故人であり、その父(紫上の祖父)も姫君が十歳の時に亡くなったというのである。ということは、父親の死去以降、母親(尼君)が姫君を育ててきたということになる。そういう意味では、まさに母系制に基づく「家」としての系譜があるわけで、「祖母」―「故姫君」―「紫上」という女君の系列に注目しなければならない。

言うまでもなく母系制は「招婿婚」で成り立つものである以上、そこには当該者として、婿を招く側の女(妻)とその家、そして、そこに招かれる婿(夫)の存在がある。この家の場合、招く側の妻である「祖母」に対して、その夫は「故按察使の大納言」であったことを、「北山の僧都」(祖母の兄)が光源氏に語っている。それによると、この「按察使の大納言」が亡くなった後は、その妻であった「祖母」は出家し、そういう状況下において「祖母」は「姫君」を育てたのであった。

そのあたりの詳しい事情を、北山の僧都は、さらに次のように源氏に言う。

「女(むすめ)ただ一人はべりし、亡せてこの十余年にやなりはべりぬらむ。故大納言、内裏(うち)にたてまつらむなど、かしこういつきはべりしを、その本意のごとくもものしはべらで、過ぎはべりにしかば、ただこの尼君ひとりもてあつかひはべりしほどに、いかなる人のしわざにか、兵部卿の宮なむ、忍びて語らひつきたまへりけるを、もとの北の方、やむごとなくなどして、安からぬこと多くて、明け暮れものを思ひてなむ、亡くなりはべりにし。もの思ひに病づくものと、目に近く見たまへし」

(娘がたった一人おりましたが、その子が亡くなってもう十年以上にもなりましたでしょうか。故大納言は、その娘を帝に差し上げようなどと、たいそう大切に育てておりましたが、その希望も果たせませずに、亡くなってしまいましたので、ただこの母である尼君が一人で苦労して育てておりましたところ、どのような人の手引きであろうか、兵部卿の宮が、内密に通って来られるようになったので、もとからの北の方は、ご身分の高いお人であったりして、気苦労も多くて、明け暮れ悩み苦しむこととなって、亡くなりました。物思いから病にかかるものと、目の当たりにしたのでございました)

尼君の夫であった「故按察使の大納言」は、「故姫君」を「内裏(うち)にたてまつらむ」(帝に差し上げよう)と考えていたという。「按察使の大納言」とは、「按察使」を兼ねた「大納言」ということで、「按察使」がこの時代単なる名誉職であったことを考えれば、その職位は「大納言」であったと言っていい。「大納言」は、「太政官」の要職で、左右大臣に次ぐ地位であった。したがって、次代をやがて担おうとする気概は強いものがあるはずで、「桐壺」巻のヒロイン「桐壺更衣」も、父親は「大納言」なのであった。たとえ后が「更衣」という低い身分であっても、天皇の皇子を産み、その皇子が「親王」となれば、その家(后の里)は、将来天皇の外戚として大きな力を発揮する可能性が生まれるであろう。

ところが、姫君入内の前に、父の「按察使の大納言」が亡くなったのである。この家にとって大きな打撃であった。そして、「いかなる人のしわざ」であったか、「兵部卿の宮」が「忍びて」通うようになった、というのである。具体的には、おそらく、この家に仕える女房-それも姫君に近似する女房-の手引きであったに違いない。女房の立場から言えば、父親(按察使大納言)の死後、この家の将来に大きな不安を持つのは当然のことであった。王朝貴族社会において、その家の姫君の後見が脆弱になった場合、よく発生する事態ではあった。

この兵部卿宮の行為は、男としての「色好み」の結果でもあろうが、しかし、厄介なことが出来した。この「宮」には、「北の方、やむごとなく」と語られるように、強力な正妻の存在があったのである。

「兵部卿の宮」とは、「兵部卿」の官職を持つ「宮」ということである。「宮」とは、「親王宣下」を下された「親王」を呼ぶものである以上、正式な男子皇族の一人と言ってよく、皇位継承権というものは有するのである。しかし、ただそれだけのことであった。「兵部卿の宮」について、ふたたび下に系図を記すが、その父は桐壺帝の祖父に当る「先帝」である。「先帝」―「一院」―「桐壺帝」―「皇太子(朱雀)」と時代は大きく変遷しているのであって、この宮に、将来立太子の可能性はまずなかった。さらに、「兵部卿」とは「兵部省」の長官ということであるが、平安朝、「兵部省」は名ばかりの役所であって、その部門の「卿」は、当時数多く存在していた親王のための名誉職の一つに過ぎなかったのである。

こういった兵部卿宮の、いわば女遊びの対象に選ばれたのが「故姫君」であったというわけで、その結果として「紫上」が生まれたということであった。むろん、紫上は、兵部卿宮にとって自身の血を引く娘ではあったが、母系制を基盤とする招婿婚において出生したのであって、「故按察使大納言・祖母」―「故姫君」―「紫上」という「家」の系譜に帰属する姫君であった。つまり、母亡き後は、祖母である尼君の後見を必要とする姫君であった。そういう意味では、この尼君が亡くなれば、紫上は、ほとんど孤児同然の身の上となるしかなかったであろう。そういう意味では、紫上の髪をかき撫でつつ「ただ今おのれ見捨てたてまつらば、いかで世におはせむとすらむ」と嘆く尼君の言葉には、きわめて重いリアリティーがあると言うしかない。

尼君亡き後の姫君の将来について、当時具体的に考えられることと言えば、父親が一方の「北の方」に預からせるということがあった。こういったケースは、言うまでもなく、「継子」として「継母」に養育されるということであって、『落窪物語』や『住吉物語』などのテーマともなっているように、「継子いじめ」の典型ともなった。あるいは、また、継子となる前に何らかの手引によって家から連れ出され、結果として、それまでとは全く異なる人生を歩むこともあったのである(光源氏に引き取られることがそうであった)。

紫上と光源氏との出会いとその後の人生は、むろん、これを非現実的な話と言うつもりはないが、やはり、この話は、エンターテインメントとしての当時の物語文芸の典型的な展開ではあったろう。いや、そういう展開でなければ、当時の物語文芸というものは存在できなかったのである。「若紫」巻以降作者が創出した物語世界は、このヒロイン(紫の上)に輝かしい未来を捧げるものでなければならなかったのである。

『源氏物語』の正編(桐壺~幻)は、そういった物語文芸の典型として展開し完結したのである。そして、続編(宇治十帖)は、正編に見られる物語文芸そのものの反措定として提示されたのである。「大い君」の物語(大い君の死)は、そういう性格の物語として読まれなければならない。

紫の上 系図

この稿続く

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