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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-源氏物語講話-

第44回
紫式部の「六条御息所」考―鎮魂として(六)―「六条京極」の御息所邸


六条院の位置について

光源氏は、自身の復権後の新たな拠点として「六条院」を造営した。その名称のとおり、「六条大路」に位置するが、東西で言えば、「東京極」の「六条」ということになる。あまり問題にされることはないように思うが、当時の権門勢家の邸宅は、ほとんどが左京(東側)の三条大路以北に位置している。すなわち、「一条」から「三条」までの東側の都市空間である。今日の地理で言えば、ほぼ御苑(京都御所)を中心とする一帯で、京都御所は、元は藤原北家の邸宅であったところを「里内裏」としたのである。当時、右京(西の京)は、随分と寂れていたことが『池亭記』(慶滋保胤、982年)の記事などからわかるが、平安京の東側(左京)であっても、「六条」界隈は、印象としては、中流以下の貴族たちの家が集まるところだったと言っていい。そのことは、「夕顔」巻の「五条大路」周辺の描写などからも伺うことができよう。

光源氏の栄華の象徴である「六条院」が、そういったイメージの強い「六条」に造営された理由は不思議なことのようにも思えるが、その理由は、実は、わかりやすい。それは、「六条院」が、元の六条御息所邸を基にして計四町に拡充、造営されたからに他ならない。したがって、ここで、あらためて問題とすべきは、光源氏は、なぜ六条御息所邸に基づいて「六条院」を造営したのか、ということなのではないか。また、その原点とすべきことだが、六条御息所邸は、なぜ「六条京極」(若紫巻)にあるのか、ということでもあろう。このことは、作者の物語制作のモチーフの追及に繋がることかも知れない。

ただし、現実問題として指摘しておかねばならないことは、たとえ物語中のこととはいえ、光源氏が「四町」からなる「六条院」を造営するには、それに適応した広大な敷地が必要とされたわけで、そういう用地が、主として藤原北家などの権門の邸宅が集中する三条以北の東側にはなかなか見つからないということもあったであろう。紫式部の物語制作におけるリアリズムというものは、やはり徹底していると言わざるを得ない。

 

「六条京極」の東は「六原(ろくはら)」

作者紫式部は、なぜ御息所邸を「六条京極」に設定したのか、ということは、あらためて考えてみてもいいことのように思える。「夕顔」巻頭においては「六条わたり」という漠とした言い方がなされたが、「若紫」巻では、「六条京極わたり」と、その所がより明確に絞られた感がある。御息所邸は、六条の「京極」だというのである。

「京極」とは、平安京が京外と接する所であって、具体的には境界(基線)となる東西南北の各大路の内縁を指すと見ていい。この場合の「六条京極」とは、六条大路と東京極大路とが交叉する京域ということになろう。

ここでは、「六条京極」いう言葉の持つイメージに注意したい。つまり、平安京の六条周辺の東端という謂いであって、この地を外れると、そこは「宮処(みやこ)」ではなかったのである。そして、この「六条京極」の場合は、そのすぐ東側を「賀茂川」が沿って流れ、その東は、「六原」と呼ばれる地域であった。

この六原地域は、遷都前は「山城国愛宕(おたぎ)郡」に属していたことは明らかである。この当時の「愛宕郡」は南北に長く展開していたと伝えられるが、それは、山城国へ「平安京」が割って入るような形で奠都されたからに他ならない。平安京遷都当初は、「愛宕(おたぎ)」と言えば、京外の地域という印象が強かったのである。たとえば。「桐壺」巻において、桐壺更衣が火葬に処されたのは「愛宕(おたぎ)といふ所」と表現されるが、この場合、おそらく「六原」周辺ではなかったかと思われる。

当時、「六原」とはどのような所だったのであろうか。その解説を、『国史大辞典』より、一部抜粋して掲げてみよう。

 

「六原(ろくはら)」

京都市東山区にある鳥辺山の西麓一帯の地名。六波羅とも書く。一帯には六波羅蜜寺や珍皇寺などがあり、そのうち六波羅蜜寺の名は平安時代中期からみえる。この地は鳥辺野へと続く葬送地として古くから都人に意識されていた(以下略)

この記述にある「この地は鳥辺野へと続く葬送地として古くから都人に意識されていた」という指摘に注意しなければならない。つまり、平安京開始当時からの葬送の土地であった。人を葬るには、その遺体を何らかの方法で処理せねばならず、平安京以前の当該地域では、故人の生活圏からさほど遠くないところで土に埋めるか、もしくは川に流すなどしたものと思われる。ところが、山城盆地に遷都してからは、京域内での埋葬は許されなかったので、京域外へと向かうことになったのである。その代表的な墓所の一つが「六原」「鳥辺野」周辺(「愛宕(おたぎ)」)だったのであろう。

墓地として著名な「鳥辺山」は、「六原」から直接続く東山の峰の一つであって、つまりは、「六原」地区からさらに都を離れたのである。このように、「六条京極」から東へ向かって、ほぼ線上に葬送の場所が並ぶことになるが、この「賀茂川」―「六原」―「鳥部野」―「鳥辺山」という並びを考えると、平安朝の葬送の場所が、時の経過とともに、都から東へと漸進的に離れていったことがわかるのではないか。

そして、ここで注意したいのは、「六条京極」と「六原」の「六」という数字の符合である。この「六」という数字は、今も「六原」地区に存在する「六道珍皇寺」の「六」でもある。この「六道」について、『日本国語大辞典』は「仏語。すべての衆生が生前の業因によって生死を繰り返す六つの迷いの世界。すなわち、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上をいう」との解説を示す。

「六道」とは、ありていに言えば、「死後の世界」(冥界)であるが、当時の人々は、「天上界」、すなわち「極楽浄土」への転生を願ってやまなかった。しかし、現世への強い執着などにより、「極楽浄土」への転生が叶わなかった時、その魂は、永遠に中有(ちゅうう)の闇にさ迷うとされたのである。

この稿続く

六原

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