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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-源氏物語講話-

第52回
紫式部の「清少納言批判」(三)―『源氏物語』と『枕草子』の対照性(一)


10世紀に流行した「物語」

『源氏物語』の魅力を、リアリズムのおもしろさだと言う人が多い。私も同意見で、あえて言えば、このリアリズムこそが『源氏物語』の大きな特色の一つだと思う。たとえば、『源氏物語』の研究史上最大のテーマとなって来たのが「准拠」だが、これは、大まかに言えば、この物語の時代設定が醍醐村上天皇時代(897~967)に重なることに起因している。そして、物語の内部で、公的な歴史事実を再現するかのように描かれるのも、基本的に、作者紫式部が、リアリズムに徹する姿勢を貫こうとするがゆえの結果と思われる。このリアリズムにこだわる作者の姿勢は、人間の繊細な心情に至るまで大小あらゆる場面においても指摘することができるのである。

ところで、この『源氏物語』(11世紀初頭成立)に先立つ時代の10世紀は、その初頭から「仮名」の使用が隆盛し始めたこともあって、おもしろい「ものがたり」=「話し(おしゃべり)」の内容を、仮名文字に定着させることができるようになった。この仮名文字で記された「はなし」が、作品としての「物語」であって、その担い手は、上流貴族階層に仕える女房たちであった。

中流階層(中の品)に属する娘たちが上流の貴族の邸宅に「女房」として出仕し、そこに暮らす姫君に仕えるわけだが、最上流の姫君たちの生活は、基本的に邸宅内を離れることはできず、その実生活は想像を絶するほど無聊であった。その無聊を慰めることが、近侍する女房たちの仕事でもあって、女房たちには、姫君が満足するような話題(話しの種)を収集、提供することが求められたのである。事実譚としての話が尽きれば、新たに創作する女房もいたであろう。さらに、そういった話しを仮名文字に定着させ作品化すれば(書き物になれば)、各上流貴族に仕えている女房どうしの横の繋がりもあって、貸し借りができたし、さらには書写も行われて、おおいに広まることとなったのである。

こういった「物語」は、広く一般に流布したものの、リアリズムという要素はさほど重視されなかった。邸内の奥深く大切に養われた姫君を楽しませることが第一義で、早い話、面白ければ、何でもよかったのである。そういう意味において、当時流行した物語類は、今日のエンターテインメント系のドラマと大差があるわけではない。

今、当時流行していた物語類、という言い方をしたが、それらは、10世紀初頭から爆発的な勢いで制作され、基本的に、上流貴族階層の婦女子の消閑の具として制作された。だから、今日残っている『竹取物語』などのごくわずかな、それなりに評価の定まった物語などと比較すると、質的にはかなり劣ったものではなかったかと思われる。この世から漸進的に消えていったのも、それなりの理由があったのである。

 

『三宝絵詞』から知る10世紀の「物語」

『三宝絵詞』(984年)は、源為憲が尊子内親王(父冷泉天皇、円融天皇妃)のために記した仏教の入門書だが、その「序」に当時の「物語」についての記述がある。この「序」についての解説は、本ホームページ内でも述べているので参照してほしいが(講義余話―10世紀の物語事情―『三宝絵詞』を読み解く―1、2)、当時の物語の数は、譬えだが「おほあらきの森の草」や「荒磯海の浜の真砂」よりも「多」かったと言う。そして、さらに注目しなければならない点は、次のような内容面に関する叙述であろう。

木、草、山、川、鳥、獣、魚、虫など名付けたるは、物言はぬ物に物を言はせ、情なきものに情を付けたれば、ただ海の浮木の浮かべたる事をのみ言ひ流し、沢のまこもの誠なる詞をば結びおかずして、

(木、草、山、川、鳥、獣、魚、虫などに名をつけたものは、ものを言わない物に物を言わせ、心のない物に心を与えているので、それらはとにかくいい加減ででたらめな事ばかりを言い流したもので、誠の真実の言葉を語ったものではなくて、)

読んで明らかなように、これは「人間」ではないものを主人公として「物を言はせ」、「情」(こころ)を与えたものというのである。こういった物語の類は、中世から流行した、いわゆる「御伽草子」に多く見られるもので「異類物」である。異類物の物語が、10世紀の都で流行していたということなのだが、これは驚くようなことではない。今日においては、これらの類は「児童文学」の範疇に入るもので、つまり、当時の貴族階層の子どもの幼児期に読ませたものと考えるべきであろう。むろん、子供が成長して読まなくなれば、これらは棄て去られた。

『三宝絵詞』は、異類物に続いて、次のようなことを述べる。

伊賀のたをめ、土佐のおとど、いまめきの中将、なかゐの侍従など云へるは、男女などに寄せつつ、花や蝶やと言へれば、罪の根言の葉の林に、露の御心もとどまらじ。

(「伊賀のたをめ」「土佐のおとど」「いまめきの中将」「なかゐの侍従」などと言っている物語は、男と女のことに話題を絞って語りつつ、美しく華やかな恋を語っているので、ありもしないことを語る罪の根から生じた嘘の言葉で語られていて、そのような物語には、けっしてお心をお留めになられてはならない)

幼児期を脱した貴族階層の婦女子が、やがて熱中したであろう物語とは、ここにある「男女などに寄せつつ、花や蝶やと言へれば」というような性格の物語であったに違いない。要は、理想的な男女両主人公を登場させ、まさに「花や蝶や」といった恋物語を展開したのである。

すでに指摘したように『三宝絵詞』の成立は永観二年(984)で、漢学者として名高かった源為憲の周辺にまで、これらの「物語」の類は波及していたと考えなくてはなるまい。このことは、10世紀において、すでに仮名文芸(物語など)が、男性貴族にとっても比較的近しい存在となっていたことを示していよう。

10世紀の「物語」の特徴の一つは、リアリズムに欠けるということであったろう。『三宝絵詞』の「浮かべたる事をのみ言ひ流し」や「罪の根言の葉の林」などと言った表現は、ありていに言えば、当時の「物語」が語る内容は「嘘」だと言っているのである。

『源氏物語』「螢」巻において、紫式部は、同じようなことを、臣下第一等の男性貴族、光源氏に語らせていることも注目されよう。

次に「螢巻の物語論」を検討しなければなるまい。

この稿続く



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