河地修ホームページ Kawaji Osamu
https://www.o-kawaji.info/

王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-源氏物語講話-

第53回
「六条御息所」考―鎮魂として(八)―巻名「葵(あふひ)」と「六条御息所」


巻名「葵」は「あふひ」である

『源氏物語』は、巻ごとに制作されていったのは動かない。そして、巻ごとに彰子に献呈されたことも動かない。そして、実際には、側近の女房のうちの誰かが、彰子に読んでさしあげたに違いない。

その巻物の最初に記されている言葉が、『源氏物語』の場合「巻の名」、いわゆる「巻名」であったろう。物語を読み上げる「女房」は、最初に、この巻名を読み上げたことであろう。その時、その巻名についての「解説」を行ったかどうか、今となっては知る由もないが、「きりつほ」などは、その理解は容易であった。しかしながら、その理解がかなり難しかった巻名もいくつかあった。「あふひ」などは、その難解な巻名の一つではなかったか。

そこで、タイトルとして掲げた、

巻名「葵」は「あふひ」である

ということである。

何を当たり前のことを言っているのか、と訝しがる向きもあろうと思うが、この巻名を「葵」と漢字表記し、そのイメージで読み始めることから、すでにこの巻の誤読は始まっている。なぜならば、この巻の正しい巻名は、「葵」ではなく、仮名表記の「あふひ」であるからである。

したがって、読者(彰子と側近の女房たちである)は、まず「あふひ」という三文字からなる仮名の言葉をどのように受け止めたか、もしくは、どのようにイメージしたか、ということから考えなくてはならない。紫式部は、そういった読者の受け止め方を十分意識しつつ物語を制作したと思われるからだ。

読者は、おそらく「あふひ」という仮名表記から、すぐに植物の「葵」をイメージすることはできたであろう。そして、あるいは、「賀茂祭」での「葵桂(あふひかつら)」を飾り付けた情景などを思い浮かべる女房もいたかもしれない。しかし、植物の「葵」に付随するところのイメージ以外(たとえば、この巻のおおよその内容、もしくは、性格、方向性など)はイメージすることは難しかったであろう。

しかし、彰子側近の女房の中には、この「あふひ」という三文字の仮名の言葉に、植物の「葵」以外の、「逢ふ日」という表現とそれに付随する和歌を思い浮かべた女房がいたかもしれない。なぜならば、この「逢ふ日」は、『古今和歌集』「巻十」「物名」で、「あふひ」「かつら」を「題」とする贈答に用いられている言葉だからだ。『古今和歌集』は、王朝貴族社会の、特に女性にとっては必須の教養であった。むろん、言うまでもないが、和歌は、基本的に仮名表記であった。

 

『古今和歌集』「巻十」「物名」の「あふひ」「かつら」

『古今和歌集』「巻十」の部立は、「物名(もののな)」と言う。「物名」とは、一首の中に、和歌の内容とは離れた特定の「言葉」を隠して詠む歌のことである。『古今和歌集』では、当該の和歌の前に、隠されている言葉が「題」として提示されており、その言葉を和歌の中から見つけ出す遊びであったと思われる。

隠すのであるから、当然のことながら、その「言葉」は一首のテーマとは無関係なかたちで読み込まれる必要がある。これは、仮名の表記から発生する同音異義のおもしろさに着目したものであって、九世紀後半から急速に普及した仮名表記の隆盛に伴う言語遊戯の文化であった。

ここで取り上げるのは贈答で、いずれも「詠み人知らず」の男女の歌である。次に仮名表記のみ濁音も示さずに掲げてみよう。なお、ここで問題とするのは「あふひ」であるが、「かつら」と併称されることで、当時の人々は、賀茂祭の「葵桂」を思い浮かべたのは間違いのないところである。

あふひ かつら

かくはかりあふひのまれになるひとをいかかつらしとおもはさるへき

(これほどまで逢う日が稀になる人を、どうして薄情と思わないことがあろうか)

ひとめゆゑのちにあふひのはるけくはわかつらきにやおもひなされむ

(人目があるので、次に逢う日が間遠くなってしまうのだが、そのことで私を薄情だと思うようになるのであろうか)

この贈答で知られるところの男と女の関係(物語)には、実は、光源氏と六条御息所とのそれと重なるところがあるのではないか。贈歌の詠者である女が、「あふひのまれになるひと」と言うのは、夜離れが続いている男、ということで、そんな不実な人を、どうして「つらし」=「薄情」と思わないことがあろうか、と責めているのである。つまり、男が女と逢ってからは、その女の所へ通うことが稀になったことを嘆く歌と言っていい。

一方、それに対する男の返歌は、言い訳のように聞こえる。夜離れが続くのは「ひとめゆゑ」、すなわち、外聞を憚る理由があるからで、それなのに、自分が薄情だと責められるのは苦しい、と返したのである。人目を憚る男の行動は、まさに光源氏のそれに合致している。

 

「夕顔」巻「六条わたり」の女君との整合性

女の詠歌から伺われる心情は、「夕顔」巻に記される次のような「六条わたり」の女君の心情に通ずるものがある。以下、引用する。

六条わたりにも、とけがたかりし御気色を、おもむけ聞こえたまひて後、ひき返し、なのめならむはいとほしかし、されど、よそなりし御心まどひのやうに、あながちなることはなきも、いかなることにかと見えたり。女は、いとものをあまりなるまで思ししめたる御心ざまにて、齢のほども似げなく、人の漏り聞かむに、いとどかくつらき御夜がれの寝ざめ寝ざめ、思ししをるること、いとさまざまなり。

(六条あたりの女君も、源氏の君の求愛をなかなかご承知なさらなかったご様子であったのを、源氏の君が思いどおりに靡かせ申し上げなさってからは、それまでとはうって変わって、ごく普通のお扱いであるのは気の毒なことよ、けれもど、まだ他人でいたころのご執心のように、一途なひたむきさが見られないのも、どうしたことなのかと思われた。この女君は、たいそう何ごとも度を越すほどまで深くお思い詰めなさるご性分なので、年齢も釣り合わないし、世間の人が二人の噂を漏れ聞いたならと思うと、ますますこのような薄情な源氏の君がお越しにならない夜な夜なの寝覚めに、悩み悲しまれることが、たいそうあれこれと多いのである。)

ここで語られる光源氏の「とけがたかりし御気色を、おもむけ聞こえたまひて後、ひき返し、なのめならむ」という行動は、逢瀬を持つようになってから後、訪れが少なくなるということで、『古今』「物名」の贈歌「あふひのまれになる」の具体的な物語内容に合致している。さらに言えば、源氏の「つらき御夜がれ」の「つらし」とは、むろん、源氏の「薄情」を言う言葉であって、『古今』「物名」の贈答歌で共通して使用されるキーワードの「つらし」であることがわかろう。

『源氏物語』の巻名「あふひ」に、『古今』「物名」の「あふひ」をめぐる贈答二首の世界を思い浮かべることができるとするならば、巻名の「あふひ」からは、「あふひのまれになる」男(光源氏)と、その男の行動を「つらし」と嘆く女(六条御息所)との愛憎の物語、という構図が浮かんでくるのではないか。

「夕顔」巻頭の表現から、影のようにその存在が示されてきた「六条わたりの女」は、今「あふひ」という巻名の表示において、ついに、この巻でそのベールを脱ぐことが示唆されたのである。六条御息所の物語が、精緻な長編構想のもとで造型されている、と前稿に述べた所以でもある。

この稿続く



一覧へ