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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第25回
第二段の主人公―ヒロインとしての「西の京の女」

 

さて、第二段のヒロインは、「西の京の女」である。「西の京」とは、平安京の地勢の関係で湿地が多く、都市としての条件は整っていなかったようである。慶慈保胤『池亭記』(十世紀末)には、当時の平安京西部の状況を「幽墟」と称しているほどだから、相当の後発地域ということになろう。しかも、二段の時代設定が、「この京は人の家まだ定まらざりける時」、すなわち、平安京遷都まもなくということであり、「西の京」という地名の印象はずいぶんと暗いものがあったに違いない。

 

物語本文は、ヒロインについて、次のように言う。

この京は、人の家まだ定まらざりける時に、西の京に女ありけり。その女、世人にはまされりけり。その人、かたちよりは心なむまさりたりける。ひとりのみもあらざりけらし。

この「西の京の女」のヒロイン性はどうであろうか。「世人にはまされりけり」「かたちよりは心なむまさりたりける」と、連続して「勝る」と言っているので、ついつい、優れた女ということで、物語のヒロインとしてふさわしいように思ってしまうのだが、しかし、よく読んでみれば、はたしてそうか、ということになる。

まず、「世人にはまされりけり」だが、「世人」(よひと)とは、文字どおり、世の人一般ということで、「西の京の女」が貴族社会に籍を置く以上、それに「まさる」とは当然こととしなくではならない。つまり、「世人には」と限定して初めて「まされりけり」ということなのである。また、次の「かたちよりは心なむまさりたりける」は、「かたち」が「容貌」である以上、“顔よりは心”がいい、ということで、逆に言えば、“顔”はたいしたことがないと言っているも同然で、これでは当の女はたまったものではない。さらに注目すべきは、次の「ひとりのみもあらざりけらし」という表現であろう。

この箇所、やや難解なところで、諸注もあいまいな解釈になりがちである。直訳を試みるならば、「独りだけでもなかったようだ」というほどのことになるが、これが具体的にどういう状況だったのかがわからない。いくつか解釈の可能性を挙げてみると、次のようなところであろうか。

 

①独り暮らしではなかった

②夫のある身(人妻)だった

③かつて夫を持ったことがあった

 

①の場合は、当時の女性が、文字どおりの独り暮らしということはあり得ない。②の夫のある身、ということは、人妻ということだが、諸注、どうもこの方向で解釈することが多いようだ。しかしながら、人妻でありながら、「まめ男」の訪問を許すというところが、「かたちよりは心なむまさりたりける」という女の設定に抵触するように思われる。そこで③ということになるが、「けらし」という過去推量の助動詞が用いられている点に注目して、過去に夫を持ったことがある、と解釈ができるのではないか。何らかの事情(未亡人かもしれない)があって、今は独り身だというのである。

 

この二段のヒロインは、おそらく当時の物語のヒロインとしては、ある意味では、ずいぶんと斬新であったと言うことができよう。それは、エンターテイメントの物語ではまず登場することのなかったヒロインであるからだ。世間並よりは上、というようなヒロインは聞いたことがないし、なによりも、“容貌”よりも“心”がいいということは、はっきり言って、顔はあまりよろしくないということではないのか。さらに言えば、過去に夫を持ったことがある女性ということであれば、その年齢はけっして若くはないということであって、いわゆる「物語文芸」に見られるヒロイン像としては、きわめて“地味づくり”としか言いようがないのである。

いや、これを、単に、地味づくりといって片づけてしまっていいものかどうか。この「西の京の女」の姿こそ、日常性そのものの姿と言っていいのではないか。あの『古今集』歌人在原業平の青春の一齣を、「うち物語らふ」「まめ男」の物語として再生したのも、実在の人物「在原業平」の人物造型としてふさわしいということができるであろう。ここには、物語のテーマとして、現実世界の恋の在り方の提示がある。

 

『伊勢物語』の開始早々、「初段」から「第二段」へと連続しつつも大きく転換する過程で、物語は大きくその世界を拡大した。それは、「いちはやきみやび」を具現する古代の英雄の「いろごのみ」(初段)から、現実世界の「まめ男」(二段)への展開であり、さらに、「いとなまめいたる女はらから」(初段)という物語世界の典型的ヒロインから、「西の京の女」(二段)という日常的ヒロインへの展開であった。

伊勢物語』という物語は、エンターテイメントとしての物語世界を革命的に変えることに成功もしたと言うことができるのである。むろん、そのエンターテイメント性は、その内面に隠された激しい精神の隠れ蓑でもあったわけだが。

―この稿続く―

 

2015.5.7 河地修

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