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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第41回
「時がうつる」ということ―紀有常の没落

 

「時がなくなる」や「時がうつる」というような言葉、もしくは表現がある。これは、もともと「時」という言葉に、「勢いが盛んな時」とか「時運に恵まれて栄えている時」という意味があって、それが、移る、無くなる、ということなのである。たとえば、『古今集』「巻十八」「雑下」・九六七の詞書に、次のような例がある。

時なりける人の、にはかに時なくなりて嘆くを見て、
(時流に乗って栄えていた人が、突然その時運が無くなって、嘆くのを見て)

このケースは、「時なりける人」(時流に乗って栄えていた人)が、急にその時運が無くなったというのである。この人に、具体的にどのようなことが出来したのかは書かれていないが、「にはかに時なくなりて」とあるので、あるいは、それまで恩顧を賜っていた人が突然死去したか、あるいは失脚でもしたのかもわからない。このようなことは、多かれ少なかれ、何時の時代でもあることのように思われる。

ところで「時がうつる」という表現である。この表現は、『伊勢物語』の「十六段」に出てくる。栄えていた紀有常が、「ある時」を境に、没落したというのである。十六段冒頭を掲げよう。

昔、紀有常といふ人ありけり。三代の帝に仕うまつりて、時にあひけれど、のちは代 かはり、時うつりにければ、世の常の人のごともあらず。人がらは、心うつくしく、あ てはかなることをこのみて、こと人にも似ず。貧しく経ても、なほ昔よかりし時の心な がら、世の常のことも知らず。
(昔、紀有常という人がいた。三代の天皇にお仕え申し上げて、時流に乗って栄えたが、 後は世が変わり、時運がなくなってしまったので、世の普通の人のようでもない。人 柄は、心根が素直で、気品あることを好んで、別の人にも似ていない。貧しく暮らして いても、それでも昔栄えていた時の心のままで、世間並みのことも知らない。)

紀有常が「三代の帝」に仕えたというのは、歴史上正しく確認することができる。有常は、元慶元年(八七七)正月二十三日に没している。『三代実録』にある「卒伝」を次に掲げる。

二十三日乙未、従四位下行周防権守紀朝臣有常卒。有常者、左京人、正四位下名虎之子 也。性清警、有儀望。少年侍奉仁明天皇。承和中擢拝左兵衛大尉。数年右近衛権将監、 兼近江権少掾。仁寿初遷左馬助。是年授従五位下、為但馬介。左馬助如故。俄而右兵衛 佐兼讃岐介。尋授従五位上。迁左近衛少将、讃岐介如故。天安元年自左近衛少将遷為伊 勢権守。同年除少納言、兼侍従。明年遷肥後権守。貞観九年為下野権守。秩満為信濃権 守。十五年授正五位下。十七年為雅樂頭。十八年至従四位下、為周防権守。卒時年六十三。

この「卒伝」によると、まず「少年侍奉仁明天皇」(少年にして仁明天皇に侍し奉る)とあるので、有常は、仁明天皇の御代から「仕うまつりて」ということであった。そして、死没した年が元慶元年(八七七)であるので、この時の天皇が清和天皇であることから、まさしく、仁明天皇―文徳天皇―清和天皇という「三代の帝」にお仕え申し上げたのであった。

ところが、古注を含め、諸注は、この「卒伝」を読むかぎり、『伊勢物語』「十六段」にあるような「世の常の人のごともあらず」とか、物語に描かれている出家する妻への餞別について、「貧しければ、するわざもなかりけり」というのは、虚構だというのである。つまり、物語だからこの話は嘘だ、という論拠なのである。

しかし、先に述べたように、有常や業平についての関連系図を精緻に分析するだけでも、この十六段の話は真実ではないかと思われてならない。つまり、紀有常は、没落したのである。少なくとも、歴史上、彼は、没落するしかなかったのだと思われてならない。

 

2017.5.30 河地修

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