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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第42回
「時がうつる」ということ―惟喬親王と惟仁親王(1)

 

紀有常が仕えた「三代の帝」(仁明・文徳・清和)のうち、注目すべきは、文徳天皇の在位の時代(嘉祥3(850)年~天安2(858)年)ではなかったかと思われる。嘉祥3年(850)3月21日に父の仁明天皇が崩御し、時の皇太子であった道康親王(文徳天皇)即位の運びとなったのである。即位は、仁明の譲位に伴い崩御前の3月19日のことであった。

文徳の即位とともに、次の皇太子のこと(立太子)があったが、この時、文徳の皇子で「親王」(皇位継承権者)としては、まず、第一皇子であった惟喬親王が挙げられた。惟喬親王の母は、紀静子、その父親は、紀名虎であった。すなわち、紀氏出身の親王だったのである。

文徳天皇自身は、母が藤原順子であったから、その外戚は、むろん、藤原北家ということになる。そして、筆頭の后は、当時の北家の氏の長者藤原良房の娘明子(あきらけいこ)であったから、この明子に親王が生まれていれば、良房の揺るぎない権勢からいっても、皇太子は、明子所生の親王になったのは当然であった。しかし、文徳が即位した時点において、明子には子がなかったのである。

文徳が皇太子となったのは、承和9年(842)8月4日であった。元服は同年2月26日であったから、その年以降明子は入内したと思われるが、いかんせん、子を為すには早過ぎたものと思われる。そして、皇太子の文徳には、承和11年(844)、第一皇子の惟喬親王が誕生したのであった。その母が、紀名虎の娘静子であることはすでに述べたが、この承和11年(844)に、文徳の第一皇子、惟喬親王が誕生したことでの紀氏周辺の喜びようは、想像するに余りあるものがあるのではないか。

承和11年(844)に文徳に「親王」が生まれたということは、当時の状況から言えば、文徳が天皇即位の時になれば、その時「立太子」という可能性が高くなるのである。すなわち、第一皇子惟喬親王の誕生に、当時弱小貴族と言えた紀氏とその周辺は、当然のことだが、惟喬親王立太子の可能性におおいに期待したことであろう。

一方、藤原北家から入内した良房の娘明子は、入内後、少なくとも嘉祥3年(850)まで、文徳の皇子を産んでいないのであるから、承和11年(844)の惟喬親王誕生から5年程度は、御子懐妊の兆しがなかったものと思われる。そういう状況下、静子は、惟条親王、恬子内親王、述子内親王等と、次々に文徳の御子を生んでいったのであるから、文徳の静子寵愛の構図は盤石のものがあった。まさしく、然るべき次期皇太子には、惟喬親王という流れが固まりつつあったのである。

『伊勢物語』の「十六段」にある紀有常についての「時にあひけれど」という表現は、まさに、この惟喬親王誕生後の朝廷内の動向を表したものと言っていい。貴族社会は、あるいは、藤原北家から紀氏への権勢の交替劇まで予想しながら、自らの生きる道の確立のために、その布石を置くことが必要とされたのである。惟喬親王の立太子、そしてその後の天皇即位の時が到来するならば、有常は、父の名虎に代わる天皇の「後見」となることは、むろん必然のことであった。

しかしながら、文徳天皇が即位した時(嘉祥3年(850)3月19日)、良房の娘明子は、文徳の御子を懐妊し、さらに、臨月という状況であった。対する惟喬親王は、7歳であったから、常識的に考えるならば、明子が文徳の男子御子をこの時産んだとしても、今日で言うところの、いわゆる「〇歳児」に立太子の可能性はないようにも思われよう。しかし、文徳天皇と明子との間に男子が誕生するということは、すなわち、その御子は、やがて確実に天皇位を襲うべき宿命を持って生まれたと言うことができるのであり、その皇子こそ、惟仁親王、後の清和天皇なのであった。

清和天皇は、まさに、天皇位を襲うべき宿命の具現者として、その後まもなく生後八ヶ月で立太子、そして、文徳天皇の崩御に伴って、わずか九歳で即位することとなったのである。

 

2017.6.7 河地修

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