河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第50回
うたびとたちの日常―男と女の贈答歌(3)

 

18、19段は、登場する男女のうち、一方の女について、それぞれ「なま心ある女(なまはんかな風流心のある人)」(18段)・「また男ある人(別に男を持っている人)」と、その評価は辛辣なほど低かった。しかしながら、二章段に続く20段の「大和にある女」は、それらとは対照的に人物像が高く評価されている。20段を次に引用してみよう。

 昔、男、大和にある女を見て、よばひてあひにけり。さてほど経て、宮仕へする人なりければ、帰り来る道に、弥生ばかりに、かへでの紅葉のいとおもしろきを折りて、女のもとに道より言ひやりける、
  君がため 手折れる枝は 春ながら かくこそ秋の 紅葉しにけれ
とてやりたりければ、返りことは、京に来着きてなむ持て来たりける。
  いつのまに 移ろふ色の つきぬらむ 君が里には 春なかるらし
(昔、男が、大和に住む女を見て、求婚し結婚したのだった。そして、しばらく経ってから、男は宮仕えをする人だったので、、大和から帰る途中、三月ごろに、楓の葉が紅葉してとても美しいのを折って、女のところに途中から詠んで送ったのだった、
  あなたのために手折ったこの枝は、春でありながら、このように秋の紅葉さながら美しく色づいています。
と送ったところ、女からの返歌は、男が京に帰り着いた時に持って来たのであった。
  いつのまにあなたのお心は、この紅葉のように心変わりしてしまったのでしょうか。あなたがお住みの都には春はない―すなわち、あなたのお心には私への「飽き」しかないように思われます。)

この20段が、18、19段と密接な連携の中で制作されたであろうことは、前に触れた論文「伊勢物語・第十九段の生成をめぐって」(『中古文学』第26号・昭和55年10月、後『伊勢物語論集―成立論・作品論―』(竹林舎)所収)で分析したとおりだが、その連携の特色は、18、19段と20段とが、対照の構図の中で制作されていることであった。その対照性は、各章段の物語構造そのものに認めることができるのだが、登場する女の人物像もまた、あざやかな対照性を示している。

20段の場合、男が「大和にある女」のところから京へ帰る途中、美しい「かへでの紅葉」を歌とともに女に贈ったところ、女は、その「紅葉」を「移ろふ色」と捉え、「いつのまに」あなたの心は「移ろ」ったのでしょうか、と切り返したのである。  

いつの時代でも同じことかもわからないが、愛し合う男女の言葉のやり取りは、時に、当意即妙の遊び心が光彩を放つ。この「大和にある女」の場合、男が、自分の愛情の深さを春の紅葉に見立てて誇示したのに対して、女はその紅葉を「秋」のものとして捉え、さらに、「秋」=「飽き」の掛詞としての発想から、「君が里には春なかるらし」―あなたのお心には私への「飽き」しかないように思われます、と詠み送ったのであった。  

この「大和にある女」の答歌のレベルの高さを、渡辺実氏は、『新潮日本古典集成、伊勢物語』で、次のように評価された。

男が幸せそうな歌を贈り、女ははぐらかしてすねて見せる、その呼吸を、「秋」の用語をすかさずとらえた手際とともに、読みとるべきである。都の外に住む女が、男と対等以上にわたり合った珍しい段で、返歌が「京に来つきて」とどいた点にも意味がある。返歌は早いのをよしとした時代だが、「君が里には」というためには、男が京に帰り着く時分にタイミングを合わせなければならない。女はそこまで計算しているのだ。

ここで言われる「はぐらかしてすねて見せる」とは、要するに男の意図を十分理解しながら、あえて、その表現するところのものを逆に読み取るということである。こういうやり取りを「贈答の妙」と呼んでいいかもしれないが、それが「妙」として成り立つためには、言うまでもなく、返歌側の歌人に相当な実力があることが前提となろう。つまり、この贈答歌の一方である主人公「昔、男」の実力は当然のこととして、もう一方の「大和にある女」の実力は、男と匹敵するほどであることが証明されているのである。

さらに氏が指摘される「男が京に帰り着く時分にタイミングを合わせなければならない」ということだが、物語本文に「返りことは、京に来着きてなむ持て来たりける」と記すことは、「タイミング」を考えて返歌を寄越した女への評価を示すものと考えるべきだろう。

そして、問題とすべきは、この20段の場合、18、19段とは対照的に、都の外に住む女であるにもかかわらず、なぜ歌人としての実力が高いのか、さらに言えば、なぜ物語が高く評価するのか、ということではないのか。それを解く鍵は、実は20段の女が「大和にある女」、すなわち、「大和」に住む女であるということにあるのではないかと思われる。

 

2017.8.19 河地修

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