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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第57回
「筒井筒」章段考補遺(一)

 

「大和人」と「河内国高安郡」の女

『伊勢物語』「23段」の「筒井筒章段」については、過去二回ほど、考察を発表している(「『伊勢物語』「筒井筒」章段考―化粧をする女、あるいは没落貴族のこと―」・「『伊勢物語』二三段の境界―生駒山のことなど―」いずれも『伊勢物語論集―成立論・作品論―』(竹林舎)所収)。後者は、前者の補完的なものであったが、今またここで、補遺として書くのは、やはり、この二つの論文の基本テーマであった貴族、もしくは没落貴族という問題をあらためて考えてみたいからである。キーワードは、「没落貴族」「大和人」「飯を盛る」ということになろう。

「筒井筒章段」は、幼馴染の夫婦がおり、そこに新しい妻が登場、男はその妻に通うことになるのだが、結局のところ、男は新しい妻のところには通わなくなるという話である。「歌徳説話」に見られる「二人妻物語」として理解されてきたようにも思われるが、実は、たんなる夫婦の愛情物語に終わるものではないことは、前掲論文で述べたとおりである。

すなわち、「大和人」が「没落貴族」であることはすでに指摘したとおりだが、ここでは、特に「大和人(やまとびと)」という言葉に注目してみたい。この場合の「大和人」という表現は、新しく通う女が、「大和国」ではなく、「河内国」の「高安郡」の住人であるということを、逆に強く意識している。すなわち、ここには「大和」と「河内」との対照があるのである。

ここで言う「大和」が、いわゆる「大和朝廷」の故地の大和盆地であることは言うまでもない。対照される「河内」は、奈良盆地(大和盆地)の西端を南北に走る「生駒山地」の西麓に位置している。河内は、地理的には大和の隣国ということになるのだが、しかし、両者の間には、格差という絶対的なものがあると思われる。それは、古代大和朝廷を直接構成した貴族たちの土地と、必ずしもそうではなかった土地、という格差ではないかと思われる。

遙か古代の大和朝廷は、九州日向の地を旅立ってからは、飛鳥地方を本拠としていた。そして、この飛鳥の朝廷を強く支えていたのは、日本列島で言えば近畿圏を中核とする西日本地域であったから、飛鳥と西日本とは強固に結ばれていたのである。その西日本からのルートは、たとえば、まず瀬戸内の海洋航路であって、海路大阪湾に到着すると、そのまま今の堺のあたりまで南下し、仁徳天皇御稜付近から陸路「竹ノ内街道」を飛鳥まで進んだ。

しかし、710年、都が奈良盆地の北端「平城京」に遷ると、陸路である竹ノ内街道は廃れたのである。大阪湾の難波から直接「大和川」を舟で上り、そして、急流の迫る生駒山地の南端付近からは、徒歩で「龍田山」を越えた。いわゆる「龍田越(たつたごえ)」と言われるルートであるが、そこを越えたあたりが、平城京に続く斑鳩の里だったのである。現在の大和川は、生駒山地南端から堺方面に西流するが、これは江戸期に付け替えられたものであり、古代は、西北難波の淀川に合流していた。

平城京側から言えば、この「龍田山」を西に越えたところが「高安郡」ということになる。23段のもう一人のヒロインは、この「高安」に住む女だったのである。

23段の「男」が、けっして浮気心などから高安の郡の女に通い始めたのではないことは、すでに前掲の論文で詳述している。要は、生活力のない若い男が、自分の食い扶持は、別の女(高安の女である)のもとで賄おうとしただけのことであって、ある意味では、幼なじみの妻との生活の破綻を避けることが目的であったとも言える。この幼なじみの妻もまた「大和人」なのであって、登場する二人の「妻」の比較という観点からすれば、「大和の女」と「高安の郡の女」も、大和と河内の対照と言っていいかもしれない。それは、まさに、大和朝廷の故地である「大和」に住む女とそうでない地域に住む女との対照でもあった。

その「大和の女」が、男が「高安の郡の女」のところに出かける時、嫌な顔一つすることなく送り出し、さらに美しく「化粧」をしたうえで、

風吹けば 沖つ白波 たつた山 夜半にや君が ひとり越ゆらむ

(風が吹くと沖の白波が立つ―その「立つ」の言葉を持つ龍田山を、この夜半、今ごろあなたはひとりで越えているのであろうか)

と、男の龍田越えの無事を祈る歌を詠んだことはよく知られている。女の夜の「化粧」が、いつでも男を迎えることができる万全のたしなみであることは言うまでもなかろう。

男は、その女の心と行為とに心を動かされて、「河内(高安の郡)」には行かなくなったというのであるが、しかし、男が来なくなった側(高安の女)からすれば、これほど悲しいことはなかったのではないか。その高安の女の心情を理解したのであろうか、男は、「まれまれかの高安」に来たのであった。そして、物語は、その時の高安の女について、次のように語るのである。

まれまれかの高安に来てみれば、はじめこそ心にくもつくりけれ、今はうちとけて、手づから飯匙(いひがひ)とりて筍子(けこ)のうつはものに盛りけるを見て、心憂がりて行かずなりにけり。

(その後ごくごく稀に、あの高安に来てみると、女は、最初こそ奥ゆかしい振る舞いをつくっていたが、今ではすっかり油断をしてしまって、自分から飯を盛るしゃもじを取って食器に盛りつけたのを見て、男は、情けなく思って行かなくなったのであった。)

この箇所、読んでわかるように、男がついに高安郡の女のところに行かなくなった理由を、女の「手づから飯匙とりて筍子のうつはものに盛りける」という「飯を盛る」行為であったことだと言っている。

「飯を盛る」行為は、なぜ男に「心憂がりて」という心情をもたらしたのか―ということを考えねばならない。

 

2017.10.28 河地修

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