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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第62回
貴族であることを問う―「あづさ弓」章段(24段)の女はなぜ死んだのか?(四)

 

清水のある所

女の再婚の告白を聞いた男は、

わがせしがごとうるはしみせよ

(その間、私は、あなたに対して変わらぬ誠実さを見せたように、今度は、あなたが新しい夫を誠実に愛しなさい)

と言い残して、その場を去った。しかし、その直後、女は突然、何かを思い出したかのように、

昔より心は君に寄りにしものを

(私の心は、昔からあなたに寄っていたものを)

と詠ったのであった。明らかに、男の態度から自身の非を悟ったという趣きであろう。

女は、いったい何を悟ったというのであろうか。それは、男の歌の「うるはしみ」という言葉ではないかと思われる。

「うるはし」という形容詞が、端正できちんとしているという意であることは、すでに述べたが、それは、人間の心に即して言う場合、自身を正しく律するということでもあろう。正しく自らを律して生きてゆく姿勢こそ「うるはしみ」という行為なのであった。

24段の女が、再婚という自らの行動規範について、あるいは、それを『戸令』の規定に基づいたとするならば、それは他律に基づくものと言っていい。自律の生き方が求められる「貴族」と、そうでない「非貴族」との対照がそこにはあろう。

24段の男が女のもとを去った理由は、女の心変わり(女はすぐに訂正したのだが)を嫌ったからではあるまい。それは、没落の貴族階層でありながらも、しかし、これだけは護り、そして手放してはならぬという「貴族の精神」の放棄を、女の「三年」という期間を経ての「再婚」に見たからではないかと思われる。三年もの間、一度も女のもとへ帰れぬほどの過酷な「宮仕へ」に従事しながらも、男は、必死に「うるはしみ」を貫いたのだと言えるのである。

女は、男の「わがせしがごとうるはしみせよ」の歌から、再び「貴族の精神」を取り戻したものとみるべなのである。だからこそ「しりに立ちて」追いかけたのであったが、男は振り向くことはなかった。このあたりの男の行動からは、恋の物語のかたちとしてはあり得ないという諸注の指摘をみることがあるが、しかし、男が去るのは当然のこととしなくてはならない。なぜなら、この章段のテーマは、「恋」ではなく、「貴族の精神」であるからだ。

仮に、この時、男が女の制止を受け入れ、女のもとに帰り、女はその再婚を取りやめたとしたらどうであろう。女は、今度は新しい男との「契り」を破ることにもなったであろう。それは、とうてい「うるはしみ」ある生き方とは言えないのである。

女は、最後に「清水のある所」で死んだ。つまり、新しい男との再婚を取りやめることで、『戸令』の「規定」に基づいて生きるということを止めたのであった。ぎりぎりのところにおいて、あるいは、女は「貴族の精神」を守ったということになるのではないか。

ちなみに、女が死んだ「清水のあるところ」について、角川文庫の脚注には「平安時代には歌語の性格が強い」とあるが、その和歌世界は、「清水」は旅人が必ず立ち寄るところであり、そのように、愛する人が再びそこに戻ってきてくれるという願いが強い。この最終場面において、女は立ち去った男が再び立ち寄ることを祈りながら命を絶つことになったと考えていい。

男を追いかけて喉が渇いたから、というような諸注の解説は、あまりにも味気ない。

 

 

2017.11.30 河地修

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