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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第66回
業平と小町(25段)(四)

 

中古語の「いろごのみ」

平安時代のごく普通に用いられる「いろごのみ」は、その語義を考える場合、原義としては、文字どおり「色」を「好む」という方向で捉えるべきであろう。つまり、「いろごのみ」とは、「色を好む」ということであり、その場合の「色」とはどのような性格のものであったのかということになる。

この時代、「色」とはさまざまな意義を有する語として用いられている。一番わかりやすいのは、今日の「色彩」ということであり、そういう意味では、現代語の「色」と同じように使われる言葉である。ただし、この時代特有の使われ方としては、色彩ということに伴って、種々の要素にわたる「華やかな美しさ」を云う言葉でもあった。従って、気持ちが華やぐことに起因する「恋愛」「風趣」「恋人」「異性」などを指す言葉としても使用されたのである。

中古語の「いろごのみ」とは、そういう「恋愛」や「異性」を好み、それらに強く惹かれる感情を表すことが多かったのである。これをありていに言えば、異性を特別強く好む、ということになるであろう。

用例として最も古いものを挙げるならば、『竹取物語』と『古今集』「仮名序」あたりではないかと思われる。

『竹取物語』の場合は、物語の見せ場ともなる「かぐや姫」への求婚譚の当事者、いわゆる「五人の貴公子」が当代を代表する「色好み」とされている。少し長いが、大事なところなので次に引用する。

世の中の男、貴なるも賤しきも、このかぐや姫を得てしがな、見てしがなと、音に聞きめでて惑ふ。そのあたりの垣にも、家の門にも、をる人だにたはやすく見るまじきものを、夜は安く寝も寝ず、闇の夜に出でても穴をくじり、垣間見、惑ひあへり。さる時よりなむよばひとは言ひける。

人の音せぬ所に惑ひありけども、何の験あるべくも見えず。家の人どもにものをだに言はむとて言いかくれども、ことともせず。あたりを離れぬ公達、夜を明かし、日を暮らす、多かり。おろかなる人は、「用なきありきはよしなかりけり」とて、来ずなりにけり。

その中に、なほ言ひけるは、色好みと言はるる限り五人、思ひやむ時なく、夜昼来けり。その名ども、石作りの皇子、庫持の皇子、右大臣阿部御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂足、この人々なりけり。

(世の中の男は、高貴な男も下賤な男も、このかぐや姫を手に入れたいものだ、我が妻にしたいものだと、その噂を聞き憧れて何も分からないほど夢中になる。竹取の翁の家の周辺の垣でも、家の門でも、家にいる人でさえ簡単には見ることができないのに、男たちは、安らかに寝ることもせず、闇夜に出て来てまで垣に穴をあけ、垣間見をし、誰でもが無我夢中の状態である。その時から、求婚を「よばひ」と言ったのである。

男たちは、人の気配のしない所にふらふらとやって来るけれども、まったく何の甲斐もありそうにも見えない。家の召使たちにせめて何か一言ことづけようと話し掛けるけれども、相手にもしない。かぐや姫の家の辺りを離れない貴公子たちは、夜を明かし日を暮らすものが多い。熱意のないものは、「得るものがない訪問は意味のないことだったよ」と言って、来なくなったのだった。

その中で、それでも求愛を続けたのは、「色好み」と評判のものすべて五人で、その恋心は収まることなく、夜昼となく訪ねて来たのだった。その名前はと言うと、石作りの皇子、庫持の皇子、右大臣阿部御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂足、この人々なのであった。)

読んでわかるように、かぐや姫の美貌の噂に心を奪われた貴公子たちの惑乱と焦燥ぶりを描いた箇所だが、その中でも、最後までかぐや姫に執着し続ける五人の貴公子たちを「色好み」と呼んでいる。この「色好み」たちは、誰よりも強く異性を求め、さらに美しい女性をぜひともわが物にしたいと激しく思い続ける第一人者ということになろう。

この「色好み」なる語について、折口博士が定義づけられたような古代最高の徳を併せ持つ人物とするのは、そういう最高の徳を持つ人物(古代の英雄、天皇)が、一方では堂々たる「色好み」であることを物語ってもいるからである。ということは、人の世となっての「色好み」は、天皇を除けば、当代貴族社会の若き貴公子たちということにもなるであろう。『竹取物語』の「色好み」が「五人の貴公子」として、それぞれ「皇子」「右大臣」「大納言」「中納言」等の高貴な身分をあえて示しているのは、そうした「色好み」に尊貴性が求められるということに基づいているのである。しかしながら、あくまでも注意しなければならないことは、「古代の英雄、天皇」やそれに準ずる「高貴な貴公子たち」が堂々たる「色好み」ではあっても、しかし、「色好み」=「好色者」が、すべて尊貴性を有するとは限らないということである。 

もう一度原点に戻るならば、中古語の「色好み」とは、一般的には、恋に夢中になる人、あるいは、恋多き人、という程度の意味と考えていいのである。たとえば、次の『古今集』「仮名序」の用例などもそうである。

今の世の中、色につき、人の心、花になりにけるより、あだなる歌、はかなき言のみ出でくれば、色好みの家に埋れ木の人知れぬこととなりて、まめなる所には、花薄穂に出だすべきことにもあらずなりにたり。

(この京になっての世の中は、華やかな時代になり、人の心も、華やかになってしまったことにより、表面的な歌、中味のない歌ばかり作られたので、歌は、色好みたちの世界に埋もれてしまって、あらたまったところには、まったく出すことができないものになってしまった。)

このくだりは、平安京遷都後の九世紀に入ってからの文化事象を説明したもので、いわゆる「国風暗黒時代」=「唐風謳歌時代」の和歌の在り様について端的に述べた箇所と言っていい。薬子の変(810年)収束後、嵯峨天皇主導の時代になって、宮廷は安定、そこでは唐風文化がもてはやされることとなったが、その間、和歌は、「色好みの家」に埋もれてしまったというのである。

ここで言う「色好みの家」とは、まさに「恋の世界」とでもいうべきところであって、そこで詠われる歌である以上、歌は、当然「あだなる歌、はかなき言」という性質のものであったのである。「まめなる所」が公的世界であるならば、「色好みの家」とは、その対極に位置する私的世界ということになろう。まさに恋の世界であり、そこでの主役たちは、恋に夢中になり、異性の心を積極的に捉えようとする恋多き人々だったのである。

そういう「色好み」の代表として、『古今集』「恋」(一~五)の各巻の巻頭を飾る歌人たちがいるのである。すなわち、「読み人知らず」を除けば、「在原業平」と「小野小町」の男女両歌人であった。彼らこそ、まさに「色好み」と呼ぶにふさわしい歌人の代表だったのであり、そういう意識が、『伊勢物語』「25段」において、業平と小町とを恋歌の贈答の主人公に仕立て上げたものと思われる。『古今集』の巻頭に両名を起用する意識と共通するものがあると言うほかない。

「色好み」について、その中古語としての語義を説明するならば、いい意味でも悪い意味でも、それは、「好色」ということに過ぎないであろう。要は、恋に積極的な人間ということなのだが、しかし、そういう「好色」=「色好み」が、稲作農耕国家であるこの国には特に求められた、ということが、折口信夫の色好み論の背景にはあるであろう。

恋は婚姻、そして、その結果として子孫の繁栄に繋がる行為であった。だからこそ、男性の色好みは、古代から評価され、あるいは今日に至るまで、比較的許容されてきたように思われるが、果たして、女性はどうであったか、ということを、この25段の小町―「色好みなる女」への評価は物語っているように思われる。そのことは、小町晩年の伝承物語を知れば明白となっている、と言うしかないが、このことは、今は措くことにしたい。

 

 

2017.12.29 河地修

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