河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第69回
東宮の女御の御方の花の賀」(『伊勢物語』29段)

 

「思うに任せぬ恋」の28段の後、物語は唐突に「東宮の女御の御方の花の賀」と語り始めるが、その中身はごく短く、その賀に「召し預けられた」時に男が詠んだ歌が紹介されるだけなのである。次に全文を掲げてみよう。

 

昔、東宮の女御の御方の花の賀に召しあづけられたりけるに、

花に飽かぬ 嘆きはいつも せしかども 今日の今宵に 似る時はなし

(昔、東宮の母女御の御殿での花の賀にお召しをいただいた時に、

これまでも、春の桜の花の美しさにいつまでも見飽きることのない嘆息はしたが、今日のこの御殿の桜の美しさには、似ても似つかないものであったよ)

 

この章段の「東宮の女御」について、諸注ほぼすべてが「二条后高子」であるとする。そして、当然のこととして、「昔、男」は「在原業平」ということになるのである。26段の「五条わたりなりける女」も、藤原順子邸(東の五条)の「西の対」に身を寄せていた「高子」とする解釈が多く、29段の「東宮の女御」を「二条后高子」とする解は、むしろ当然と言えば当然かもしれない。ただ、この章段の男女に、業平と高子を准えることはいいとして、この章段と歌の解釈そのものについては、再検討が必要なのではないかと思われる。

というのは、諸注ほとんどが、この歌から、男(業平)の高子への秘めた思いを読み取ろうとするが、竹岡正夫氏は、その姿勢を明解に否定されるからである(『伊勢物語全評釈』)。たとえば、北村季吟『拾穂抄』は次のように言う。

 

上には、御賀の体をよめり。底には、花に飽かぬなげきとは二条の后の御事也。かかる折にも紛れぬ思ひあるところを言へり。

(表面上は、花の賀のお祝いとして詠ったものである。その裏では、「花に飽かぬ嘆き」とは、二条の后への思いである。このような時にも、変わらぬ愛情のあることを詠ったのである)

 

こういう解釈を諸注は踏襲するが、これに対して、竹岡正夫氏は、『伊勢物語評釈』で次のように反論された。

 

地の文の「東宮の女御の御方の花の賀」という言葉続きがかきたてる絢爛豪華なムードに満ち満ちた宮廷の雰囲気、そこへわざわざ祝賀の歌を詠むように特別に出席を命じられて参上している「翁」役の者の詠んだ歌なのである。当然、あくまでもその祝意を汲みとってめでたく解釈するのが、表現に即した最も素直な、そして妥当な読み方であろう。

 

竹岡氏が言うとおり、この章段の男は、あくまでも「東宮の女御の御方の花の賀」にふさわしい歌を詠ったのであるから、それは、この御殿の桜の見事さを称賛するものでなければならないだろう。そして、この男について、竹岡氏が「そこへわざわざ祝賀の歌を詠むように特別に出席を命じられて参上している「翁」役の者」と説明されている点に注目しなければならない。

おそらく、竹岡氏は、この章段の「男」を「寿詞」を述べて寿ぐ専門歌人という見方を持たれたのだと思うが、その考え方は、基本的に間違いではない。「翁」とは、能楽での「翁」を意識されたのだろうが、ここは、単純に、歌に長けた人物が呼ばれ、詠歌を命ぜられた、と考えればいい。物語本文の「召しあづけられ」とは、「召しあづく」に受身の「らる」が接続したものであり、そこへの出席を命ぜられたのである。石田穣二博士が「行事に臨時に列席を命ずる意」(角川文庫)と解説されているとおりである。

問題は、竹岡氏が否定されるように、この歌に寓意を読み取ることが間違いかどうかということになるのだが、実は、歌人たちのこういう列席のかたちは、二条后高子の場合、よくあったのである。彼女は、「東宮の女御」の時代、詠歌に長けた(専門歌人と言っていいだろう)うた人を召しては、その御前で歌を詠うことを命じている。次に『古今集』から2例引用する。

 

『古今集』「巻一」「春上」

二条后の、東宮の御息所ときこえける時、正月三日、御前に召しておほせごとある間に、日は照りながら雪の頭に降りかかりけるをよませ給ひける

(二条后が、東宮の御息所と申し上げた時、正月三日、御息所の御前に召され、お言葉があるときに、日の光は照ったままでありながら、雪が頭に降りかかったのを、御息所が詠うことをお命じになった)

文屋康秀

春の日の 光にあたる 我なれど かしらの雪と なるぞわびしき

(春の陽ざしの光にあたる自分ではあるが、頭が雪となっているのが辛いことです)

 

『古今集』「巻五」「秋下」

二条の后の、東宮の御息所と申しける時に、御屏風に、龍田川にもみぢ流れたる形をかけりけるを題にてよめる

(二条后が、東宮の御息所と申し上げた時に、御屏風に、龍田川に紅葉が流れている図柄が描かれているのを題として詠んだ歌)

素性

もみぢ葉の 流れてとまる みなとには 紅ふかき 波や立つらむ

(紅葉が流れて留まる河口では、紅色の濃い波が立っているだろうか)

業平朝臣

ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 からくれなゐに 水括るとは

(あの神代にも聞いたことがないよ、龍田川を濃い紅色に括り染に染めるとは)

 

この二例の他にも、「巻十一」「物名」に、二条后が文屋康秀に「詠ませ給ひける」歌が収載されているので、二条后は、あきらかに、当時の専門歌人らを「召して」詠歌を命じたものと思われる。まさに、「高子歌壇」と呼ばれる所以がここにあろうが、要は、高子という人は歌が好きだったということであり、さらに言えば、彼女は、この時代(9世紀である)の和歌の歴史を担った人物の一人と言うことができるのであるが、そのことは、今は措こう。ともかく、二条后の「花の賀」に専門歌人が召された以上、そこでは桜を賞賛する歌を詠わなければならないのは当然である。しかし、この場合、注意しなければならないことは、その御前に、文屋康秀や素性法師に混じって、在原業平も召されていたという歴史的事実ではなかろうか。

すでに明らかなように、『伊勢物語』の二条后章段(三~六段)は、『古今集』では明示されなかった若き日の高子と業平の恋を暴露する物語のかたちを取るものであった。そういう『伊勢物語』前半の恋物語を承けてこの29段があるのであるから、後に、「東宮の女御」としての地位に昇り詰めている高子への業平の心情を、そこで詠われた歌に読み取ろうとするのはごく当然の読み方と言わねばならない。

『古今集』では、二条后高子は「東宮の御息所」時代に、当時の専門歌人たちを召して詠歌を命じたことが記録として記されているのである。そして、その中には、六歌仙の最も代表的歌人である在原業平がいたのである。その業平は、二条の后に和歌を献上しながらも、その時の心情は若き日の恋の思い出に、深く詠歎することがあったのかどうか、というような興味は、まさに物語としてのおもしろさではあろう。

そして、この29段の有するおもしろさを、さらに遠慮なく展開し物語として描いたのが、後の76段ということになるが、それについては別稿を用意したい。

 

2018.1.18 河地修

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