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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



-伊勢物語論のための草稿的ノート-

第83回
「天の下の色好み」―第39段の諸問題(六)

 

「至は順が祖父なり。みこのほいなし。」―源順の扱い

ところで、「至は順が祖父なり。みこのほいなし」の解釈は、古くから難解とされる箇所ではある。しかし、文字通りの解釈としては、「至は順の祖父である。内親王の葬送の本義は、まったく無い」ということでしか考えられないのではないか。というのも、「業平らしき男」も含めてだが、「源至」の行為は、崇子内親王の葬送の場を、それこそ男と女が遊ぶ恋の世界として行動しているのであって、内親王への弔意の発意としてはまったくふさわしからぬ行為であったと言わねばならない。それを「みこ(皇女)のほい(本意)なし」と、端的にコメントしたのである。

しかし、ここで問題とすべきは、「至は順が祖父なり」という解説文である。源至は、嵯峨天皇の皇子であった定(さだむ)の子なのだが、その至の孫が、順(したがふ)であると、ここでわざわざ言うのである。

「順」とは、言うまでもなく、『後撰和歌集』撰者、「梨壷の五人」の一人として名高い「源順」であることは言うまでもない。嵯峨天皇から言えば、

嵯峨天皇―定(さだむ)―至(いたる)―挙(こぞる)―順(したがふ)

という系譜を確認することができるであろう。この順の没年は、永観元年(983)73歳であったと伝えられるので、逆算すれば、延喜11年(911)の出生ということになる。

実は、『伊勢物語』「39段」の末尾に、この「源順」の名が記されることによって、ある学説に、少なからぬ影響を与えることになった。それは、『伊勢物語』の作者説である。具体的に言えば、「紀貫之作者説」である。

『伊勢物語』の作者として、古くから「紀貫之」が措定されてきたのはよく知られている。この物語を一個の作品として見るとき、このような作品を世に問う人物としては、比定の範囲内ではあるが、紀貫之しか存在しないという推論は、ほぼ確論と言うことができる。ただ、古注釈の多くは、各章段の物語や和歌について、それらの元々の詠者や成立といった概念を持っていたため、紀貫之を作者として認めつつも、それは、この物語の全体的かつ最終的な編者(作者)の一人、といったような捉え方をすることが多かったのである。

しかし、あらためて言うまでもないことだが、たとえば、『古今和歌集』について各和歌の詠者を『古今和歌集』の「作者」と言うことはなく、「作者」とは、一個の作品としての『古今和歌集』全体の発現の意思者である作者(醍醐天皇、もしくは編者)を言うのである。それと同じことであって、『伊勢物語』の場合も、作品全体の統括的制作者を「作者」としなければならないのは当然のことである。

そういう意味では、『伊勢物語』の作者とは全体の「編集者」であると言うべきかもしれないが、かつて山田清市氏が精緻に分析された文体研究は、この物語と『土佐日記』との文体における共通性を訴えて、『伊勢物語』の物語文にもかなりのパーセンテージで、貫之が関与したものであることを推測させるものがある。本章段は、その紀貫之作者説に影響を与えたのである。

 

貫之作者説のこと

すなわち、ここで「源順」という人物名が出てくることで、以下のような解釈が生まれたのである。

 

契沖『勢語臆断』

「順は永観のころまで在世なれば、此物語、天暦のころよりはるかに後に出来たる證なり」

(源順は、永観元年(983)まで生きていたので、この物語は、天暦年間(947~957)よりも遥か後に作られた証である)

 

藤井高尚『伊勢物語新釈』

「至は順が云々の文、真本になきぞよき。後の人の書き添へおけるを誤りて本文には書き続けたるなり」

(「至は順が云々」の文は、真名本には無いがその方がよい。後人が書き加えていたのを誤って物語本文として書き続けたのである)

 

この二つの解釈の内、契沖の『勢語臆断』は、「源順」が物語に出て来ることで、物語の成立を「天暦」よりも「遥か後」と結論付けたことになるが、「物語」というものは、制作時点での解説的な語りを本来持つものであること、既述のとおりである。その意味では、『伊勢物語』の制作時点が、源順という人物の存在時に重なれば問題ないわけで、このあたりのことを厳密に考えてみなければならない。

また、『伊勢物語新釈』の解は、「後の人の書き添へおける」ものが本文に紛れ込んだというもので、この可能性はゼロということではないが、「真名本」以外の圧倒的多数の諸本がこの末尾の箇所を持つ以上、あくまでも物語の正文として考えるべきであろう。

つまり、この章段の末尾の解説的文章の場合、『伊勢物語』の制作時に「源順」が話題として扱われることの当否を考えればいいということになるのである。「天暦のころよりはるかに後に出来たる」(契沖『勢語臆断』)というような考え方は、「順」=天暦期という固定観念から導かれたものと思われる。

しかし、源順を天暦期(947~957)の人物とする捉え方は、はたして正しいことなのであろうか。それは、単純なことなのだが、順の生没年に注意してみればいいのである。推定ではあるが、順は、延喜11年(911)生まれであって、けっして天暦期のみを生きた人物ではないのである。順と言えば、後世から見て、まず『後撰集』の撰者の一人という印象が強いが、順は、若くして『和名類従抄』を編纂したことでも知られている。この仕事は、実に順の二十代のことであった。延喜11年(911)の生まれと仮定すれば、それは930年代のこととなるのであって、紀貫之が土佐国から帰京したのが、承平5年(935)のことであることを考えるならば、『和名類聚抄』を勤子内親王(醍醐天皇皇女)に謹呈した順の功績を、まさに貫之は目の当たりにしたことであろう。

「至は順が祖父なり」という39段の解説的コメントは、20代の若さで、みごとに『和名類聚抄』を編纂した順に対し、『伊勢物語』作者が、やや諧謔的な賛辞を贈ったものと考えられるのではないか。それは、貫之を筆頭とする『古今和歌集』撰者たちを継承する「うたびと」としての源順への激励ではなかったかと思われる。たとえば源至のような「色好み」たちが九世紀の和歌の系譜を担ったように、これからは、和歌の時代を若き順が担うことへの『伊勢物語』作者(紀貫之)の激励があるように思われてならない。

なお、「至は順が祖父なり」という場合の「順が」の格助詞「が」は、表現者からの親愛の情に支えられる表現であることを付け加えておきたい。

 

2018.12.6 河地修

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