講義余話
井上円了のこと―「エンリョーさん」は偉かったか?(1)
井上円了の時代
東洋大学」は、人間で言うなら、今年で満127歳である。創設は明治20年(1887)だから、長寿と言えば長寿ということになるが、人と違って「寿命」というものはなく、努力と工夫次第で、この先何年でも生き続けることができる、と言うこともできるであろう。しかし、昨今の“大学”という教育機関を取り巻く環境は、極めて厳しい。
ところで、東洋大学の創設者は、井上円了(いのうええんりょう)と言う。創設当時は「東洋大学」ではなく、「哲学館」と言った(東洋大学は、明治39年(1906)から。円了自身の命名による)。
井上円了は、1858年、越後長岡藩の真宗大谷派の寺院(慈光寺)の子として生まれた。1858年と言えば、安政5年のことで、日本史上名高い「安政の大獄」は、この年に始まった。
「安政の大獄」とは、むろん、幕府大老井伊直弼の専横ぶりをものがたって尽きないものがあるが、しかし、その本質的遠因と言うべきものは、当時のこの国(日本)が、「国家」としての体(てい)をなしていなかったということだ。
言うまでもなく、江戸期は、幕府と諸藩とからなる幕藩体制であった。徳川家の力が他を圧して強かった時代はよかったが、弱くなると、あちらこちらからぼろが出た。その象徴的な事件が、1853年の「ペリーの黒船来航」であった。
あまりにも有名な狂歌、
太平の眠りを覚ますじょうきせん〔蒸気船・上喜撰〕たった四杯〔船・茶〕で夜も寝られず
とは、当時の人々の混乱ぶりを見事に活写していておもしろい。
鎖国を国是としていた国が、ある日突然“国際化”という荒波に放り出されたのである。上を下への大慌てであった。
国際化の時代は、言うまでもなく“国家”が必要となる。“外交”には、窓口を一本化し、その代表となる政府機関を設置せねばならないからである。
しかし、弱くなっていた幕府は、この点でふらついた。朝廷(天皇)に頼ったのである。以降、この国が幕末の動乱期へと突き進んだのは周知のことで、その過程において「安政の大獄」も引き起こされた。
哲学の専門学校
この稿は「井上円了」について語ろうとしている。
幕府が倒れ明治となった年(1868)、円了は、満10歳の少年であったから、子供心にも新しい時代の到来は実感したと思われる。円了は16歳の年(1874)、地元の「新潟学校第一分校」(長岡洋学校として前年に開校)に入学したが、要するに、時代は、猛烈な「文明開化」の渦中にあった。その後、真宗大谷派東本願寺の給費生となった円了は、1881年、「東京大学」に入学した。ここで「哲学」を学んだのである。
しかし、卒業(1885年)後、円了は東本願寺には戻らなかった。その2年後の明治20年(1887)、円了29歳の時、「哲学」の教授を目的とする専門学校を立ち上げたのである。これが、東洋大学の前身「哲学館」であった。
その前年の明治19年(1886)には「帝国大学令」が公布され、「東京大学」は「帝国大学」と改称されていた。国家の屋台骨を支える人材養成機関が、正式に整えられたということになる。
この前後、今日の有力私大の多くも、「専門学校」として設立されている。
明治13年(1880) | 「東京法学社」(法政大学) |
同 | 「専修学校」(専修大学) |
明治14年(1881) | 「明治専門学校」(明治大学) |
明治15年(1882) | 「東京専門学校」(早稲田大学) |
明治22年(1889) | 「日本法律学校」(日本大学) |
これらは、すべて、「法律」や「政治経済」を教授するもので、いわば「実学」であった。つまり、明治近代国家建設の過程で、民間により、その実社会を支える人材を直接養成する機関が作られたと言える。
土木や工学が社会のインフラ整備の技能者の養成にあったとするならば、法知識や政治経済の仕組みを知る者は、新時代の市井のリーダーとしての役割が担わされた。
ついでに言えば、これらの専門学校の他に、多くの宗教系の学校が設置されている。特にキリスト教による学校の設置は、西洋からもたらされた新思想と、それに基づく英学の教育であったから、まさに、文明開化、国際化の時代にふさわしい教育として脚光を浴びた。
そういう時代において、井上円了は、「哲学philosophy」の専門学校を立ち上げたのである。激しい国際化と西欧主義の中で、反動としての日本、東洋主義の台頭もあって、東洋と西洋との均衡の取れた哲学思想を教授するという哲学館の登場は、思潮史的観点から見れば、きわめて意義の高いことであった。もちろん、その哲学思想の“核”となるべきものは“仏教思想”であった。
したがって、哲学館設立にあたって残されている複数の文書は、いずれもが的を射た見事なものではあるが、しかし、「学校経営」という見方からすると、そこには“商い”としての才覚は、どうも見いだせないように思える。単純に言えば、この「哲学」の専門学校に、はたして若者はどれだけ入学してくれるのか、という疑問が生じるということなのである。
できて間もない若い「近代国家(社会)」には、喫緊の課題として、新しい実社会を支えていく速成の人材づくりが求められた。だから、そのための「専門学校」(実学)ということなら、“客”(学生)も集まりやすかったであろう。
しかし、「哲学」を教える学校、ということでは、人は多く集まらなかったと思われる。つまり、高邁な“志”はあっても、そこに“客”(生徒)が来ない、という冷徹な現実に直面せざるを得なかったのである。
エンリョーさんの「巡講」
当然のことながら、「哲学館」の経営は、苦しかった。官立の学校は国家から金が出るが、私立の学校は、生徒の授業料だけであった。だから、これが思うように集まらないとなると、必然的に経営は行き詰まる。
そこで、円了は、「寄付」に頼るしかなかった。「哲学」を教授する、という学校の性質から、大口の寄付は望めなかったのであろう、円了は全国を巡り、講演を行いながら、寄付を募ったのである。講演会場の多くは、真宗との関係から、寺院が多かった。
当時の浄土真宗の門徒は、圧倒的に農家が多かったので、訪問先は、主に山村であった。そこは近代思想も科学も届きにくい世界であったから、人々は、いわゆる「迷信」に左右されることが多く、円了はそういう迷信の打破もテーマに掲げざるを得なかった。このことが、後に、彼をして「妖怪博士」の異名を取らしめることになるのだが、そのことは今はいい。
実は、井上円了は、大正5年(1916)の秋、山口県の山間部にある私の母の実家を訪れている。檀家総代を務めていた関係だと思うが、先年亡くなった叔父は、私が訪れる日には、いつも必ず、円了の掛け軸を部屋中にぶらさげて、「エンリョーさん」の大学に行った「甥」を盛大に迎えてくれた。
叔父の口癖は、「エンリョーさんは、えらい!」であったが、叔父の一番上の姉で、数年前にかなりの長寿で亡くなった伯母もまた、円了のことに話が及ぶと、その都度この言葉を連発した。
要するに、母の実家にとって、「エンリョーさん」は、とてつもなく「えらかった」のである。
その伯母は、私が、東洋大学に入学し、さらにそのまま教員として勤務するようになったことを、我が事のように喜んでくれた。ただ、その時に伯母の言う大学名は「東洋大学」ではなく、いつも「エンリョーさんの大学」ではあったが―。
浄土真宗の教義の特質として、「合理」というものを挙げることができる。明晰にして篤実な真宗門徒であった叔父は、いつも、この「合理」の教えを説いた。説くあまり、たとえば、「法事は死んだ者のためにやるもんじゃない」というようなことを強く主張したから、教義そのものには疎い親戚連中からは、素直な心情として、あまり喜ばれなかった。
こういう叔父には、浄土真宗の教義である「合理の教え」が、迷信や俗信を痛快に否定する円了の「合理」と「愛理」の精神に、そのまま重なっていたのである。
とにかく、「エンリョーさんは、えらい」のであった。