河地修ホームページ Kawaji Osamu
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王朝文学文化研究会 


文学文化舎



講義余話

『ひょっこ』と『源氏物語』(一)

 

『ひよっこ』への違和感

朝の連続テレビ小説の「ひよっこ」が終わった。このドラマについて、私は、ある時から、けっして悪い意味ではなく、一種の違和感を持つようになっていたが、しかし、ドラマの中盤ごろから、結局は、この違和感の造型こそが、このドラマの作者の大きな制作意図ではなかったかと思うようになり、そして、今では、そのように確信するに至った。

世の中に誕生するエンターテインメントとしてのドラマには、けっして崩してはならない鉄則がある。その一つは、絶対的「善」としての主人公の造型であり、もう一つは、その主人公が山あり谷ありの幾多の苦難を乗り越えつつ、しかし、ついには、その主人公にハッピーエンドがもたらされるという結末の構図である―むろん、近現代の意欲的な作家たちは、その鉄則に果敢に挑戦し、これらのタブーを堂々と破ることは多々あるのだが、しかし、それは、エンターテインメントとしての範囲を自由に越えても構わないという了解のもとに行われるものであった―。

テレビや映画でも同じことだが、やはり、エンターテインメントの正道としてのドラマは、この二つの鉄則は崩せないように思われる。

今回の『ひよっこ』の場合、むろん、これらの鉄則は、しっかりと守られていた。どんなドラマでもそうだが、主人公が性悪では話にならないし、その主人公に苦難が襲いかからないわけにもいかないのである。しかし、今回は、この苦難の質が違ったように思われる。

ドラマの前半部において、東京に出稼ぎに出ている父親の突然の失踪騒ぎは、むろん、主人公に与えられた最大の苦難であり試練であった。このことがあったからこそ、彼女は故郷を離れて東京に出ることになり、そこで数々の出会いに巻き込まれてゆくのである。そういう意味では、この構図は、伝統的な、いわゆる「貴種流離譚」の定型ということでもあって、主人公は、この流離の旅において、着実に成長してゆくのである。

しかし、私が抱いた違和感―苦難の質が違うということである―とはどういうものか―。それは、このドラマの場合、主人公が出会う人物たちが、ことごとく「善人」であったということである。

普通、このようなドラマには、必ず主人公に立ちはだかる敵役(かたきやく・アンチヒーロー、ヒロイン)がいる。今までの朝の連続テレビ小説にも、ごく当たり前のように、そのような役割の登場人物がいた。ただし、その敵役は最後までそのキャラクターを貫くわけではなく、いつかは主人公に心を開く(改心する)のであり、そして、ドラマの総合的な意味合いにおいて、結末は「めでたし、めでたし」で終わるのである。

 

エンターテインメントとしての『源氏物語』

実は、ドラマにおける絶対的主人公とその敵役の存在は、一千年前の紫式部『源氏物語』でも、同じような構造を指摘することができる。言うまでもなく、『源氏物語』の主人公は「光源氏」だが、その敵役は、まず「弘徽殿女御」ということになる。物語の発端(桐壺巻)において、光源氏の母である桐壺更衣への虐めや嫌がらせは陰湿極まるものがあった。その事が原因となり、桐壺更衣は、ついに命を落としてゆくという展開となったのは周知のとおりである。

しかし、この物語を最後まで読んでゆくとわかることだが、作者は、光源氏に須磨・明石への流離という苦難(貴種流離譚である)を与えながら、しかし、そこでの明石入道一家との出会いもあって、彼は、大変な実力を有する政治家として中央への復活を遂げることになったのである。そして、注目すべきは、あれほど光源氏を憎み、そしてその破滅を目論んで攻撃してやまなかった弘徽殿女御が、最後には改心して(不本意ではあったが)心穏やかな晩年を過ごしているというくだりが描かれ、あらゆる点で、「めでたし、めでたし」という栄華の結末を迎える構図(「藤裏葉」巻)となっているのである。それは、まさしく朝の連続テレビ小説のそれと変わるところがない。

さらに言うならば、紫式部という人は、当時の物語作家としての自覚を充分に持っていた人で、物語というものに対する考えを、すでに『源氏物語』の中で披歴していた。そこで、紫式部は、光源氏の言葉を借りて次のように言う。

その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ、良きも悪しきも、世に経る人のありさまの、見るにも飽かず、聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしき節々を、心に籠め難くて、言ひおきはじめたるなり。良きさまに言ふとては、良きことの限り選り出でて、人に従はむとては、また悪しきさまのめづらしきことを取り集めたる、皆かたがたにつけたる、この世のほかのことならずかし。

(その人のことということで、物語はそのまま実際に物語るということはないけれど、良いことでも悪いことでも、この世の中に生きている人の生き様で、見ているだけでは満足できず、また、聞いているだけで自分の胸一つには収めておけないことを、後の世にも語り伝えさせたいと思う事々を、心に留めて置くことができずに、物語ることになったのだ。善人の善を言おうとするあまり、善なることのすべてを選び出し、読者の期待に応えようとするあまりに、一方では悪人のあり得ないような悪の行状の甚だしいことを取り集めたりするのは、「善」と「悪」皆それぞれを強調したもので、しかし、この世の中で実際にないことではないのである。)

―『源氏物語』「螢」巻―

紫式部の物語論として有名なくだりであるが、このあたりの認識からは、当時の「物語」というものが、今のエンターテインメントとしてのドラマとけっして変わるものではないということがよくわかる。要は、登場人物について事実のままに描くということはないが、実際に世の中を生きている人間のことを語ることであり、その際には、善人であれ悪人であれ、言わば、読者へのサービスとして、それを大きく誇張して見せるものだと言うのである。

従って、善人悪人であれ、それは誇張された役柄であり、そうではあるが、しかし、けっして「この世のほかのことならず」―実際にないことではない(嘘ではない)―と言うのである。 

そして、物語の進展に応じて登場する悪人は、善人としての主人公を相当際どいところまで追いつめる結果にはなるのだが、むろん、主人公がその危機を見事にはねのけて勝利するのは言うまでもない。ということは、主人公に対峙する敵役(悪役)の存在があってこそ、痛快無比のエンターテインメント性が発揮されることになるのであって、これらの敵役が娯楽としてのドラマを成り立たせる必須のものとも言えるのである。


 

2017.10.13 河地修

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