講義余話
平成30年王朝研文学文化散歩-京都(二)
「伏見」と「伏水」
かつて「伏見」(ふしみ)は、「伏水」と書かれていた。昔の表記のままならば、今外国人観光客でごった返す「伏見稲荷大社」は、「伏水稲荷大社」だったことになる。「伏見」に変わった明確な理由はわからないが、その表記が「伏水」とある以上、土地の下には「水」が「伏」しているというイメージがあり、それが嫌われたのかとも思うが、確証はない。
京都は、水の都である。盆地の底は巨大な水瓶になっており、そこに蓄えられている水量は、琵琶湖のそれにほぼ匹敵する、というような研究を、かつて聞いたことがある。この無尽蔵の水資源こそ、この土地に都を造らせ(平安京)、さらに今日まで、千年の時を超える都市としての命脈を保たせたと言える。
周知の通り、京都盆地の表層を北から南に流れる河川は、東西の両側面にある。東が「賀茂川」と「高野川」とが合流する「鴨川」であり、西が丹波地方から流れて来る「桂川」である。そして、この二つの河川が合流した後、その下流で「宇治川」「木津川」が合流し、さらに「淀川」となって大阪湾へと注ぐのである。その総水量は、豊かさを超えて、堂々たるものがある。まさに壮観たる「水の都」の風景ではあるまいか。
さて、「伏水(ふしみ)」である。鴨川がまっすぐに南下し、やがて九条を過ぎてから向きを南西に変えるのだが、伏見地区は、その辺りから真南の「宇治川」に至るまでの地域である。
「宇治川」は、今は消えた「巨椋池」の北縁を流れる川であるから、この地域は「鴨川」と「巨椋池」とに挟まれた土地と言っていい。「巨椋池」とは、盆地全体の巨大な遊水地のようなものであり、その遊水地の北に隣接する土地が「伏見」であった。まさに「伏水」と表記するにふさわしい土地ではあったろう。
今回、石清水八幡宮を訪れた後、伏見稲荷に向うことは決めていた。しかし、夜の懇親会までは少し余裕がありそうなので、中間の中書島駅で降りて、伏見の酒造会社に行くことにした。伏見地区の豊かな「伏流水」がなければ、日本を代表する酒造メーカーは生まれなかった。「月桂冠」や「黄桜」は、全国展開しているが、それぞれ伏見の酒造りをテーマとするミュージアムを設置していて、今は観光客も多いのである。
どこかで「伏水」の解説があるはずですが、
と私が言うと、みなさんが探してくれた。目的のものは、黄桜酒造の庭にあった。それには、地下から汲みだされる名水「伏水(ふしみず)」は、この土地がかつて「伏水」と記されていたことから命名された、と書かれていた。この日も、その水を普通に汲みに来る人もいて、実に「伏水」らしい光景であった。
かつて「伏見街道」を歩いたことがある。京の東から巨椋池へと南に向かう街道が「伏見街道」ということになるが、この「伏見街道」には、東山から幾つかの川筋が西へ流れていて、それに橋が掛けられた。その橋の石柱には、今でも橋名として「伏水街道」という文字が刻まれているのである。これらの橋がいつ掛けられたか正確には知らないが、とにかく、その昔「伏水」と表記されていたことは十分に偲ぶことができるでのある。
キザクラカッパカントリー内にある「伏水」の解説板 |
「伏見街道」に掛かる「第四橋」の橋名。「伏水街道」と刻印されている。 |
2018.9.11 河地修
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