講義余話
日向の国にて(三)
大和朝廷とアマテラス
皇祖神が「伊勢神宮」に祀られていることは、よく知られている。この皇祖神は、正確には「天照大御神」と言い、伊勢神宮も、「神宮」というのが正しいという。
「神宮」は「内宮」と「外宮」の二社からなるが、「天照大御神」は「内宮」である「皇大神宮」に祀られている。宇治山田駅に近い「外宮」は、正式には「豊受大神宮」と言って、その祭神は、「豊受大御神」である。これは、天照大御神の食事の世話をするという祭神であって、内宮鎮座から500年後の頃に勧請されたと伝えられる。神宮のお参りは、外宮から内宮の順序で、と言われるのは、まず外宮の神様に、内宮の天照大御神のお世話を頼んでから、というのがその理由らしい。
現在の内宮に天照大御神が祀られたのは、およそ2000年前のことと言われているが、最初は、宮川上流に今もある「瀧原宮」がそれであったらしい。つまり、そこから、宮川下流域に位置する五十鈴川のほとりに遷ったということになる。
遥か古代、祭神は山中奥深い場所にあり、やがて人里近くに遷るという流れはよく見られるかたちではあるが、伊勢神宮も、そのようなことであったのかどうか、ともかく、原初は「瀧原宮」であったらしいということがおもしろい。むろん、「瀧原宮」の祭神も「天照大御神」であり、内宮のそれが「和御魂(にぎみたま)」であるのに対して、瀧原宮のそれは「荒御魂(あらみたま)」という位置づけである。
なお、正確に言えば、「瀧原宮」には「瀧原並宮」が、文字通りその横に並べられて祀られているが、その理由はよく分からないらしい(両社とも祭神は「天照大御神」)。祭神が二つあるのは、「和魂」と「荒魂」ということで説明されることが多いが、ここの二つの社もそういう説明が行われてもいる。私は、この並社の佇まいに、上賀茂神社の「本殿」と「権殿」のそれを思い出すのだが、このことは、今は措こう。問題は、「天照大御神」(アマテラス)と大和朝廷の関係である。
「大和朝廷」は、その皇祖神である「天照大御神」を、なぜこの地(伊勢)に祀ったのか、ということが、古くから謎とされている。皇祖神を、なぜ「大和」ではなく、「伊勢」(瀧原宮も含めて)に祀ったのか、ということである。
「天照大御神」は、太陽神である。この、いわゆる太陽信仰は、日本全国どこででも(むろん、世界中でも)見られる信仰の一つと言っていい。つまり、「伊勢」の地に限ったことではないのであるから、「大和」に「宮」を設けてもよさそうなものであるが、なぜ「伊勢」にしたのか、ということなのである。
その理由を考えるヒントが、「日向」にはあるのではないか―。今回の「日向」への旅は、そのことの糸口を探りたい、という思いもあった。
日向の国の大御神社
高千穂を訪れる前に、我々は延岡市の南にある大御(おおみ)神社を訪れた。そこまでは、延岡南インターから東九州自動車道を南下し、二つ目の日向インターで下りる。途中、「無料区間」という掲示板が目につくのは、あるいは、このあたりの高速道路は、住民の生活道路として使用されているのであろうか。大御神社へは、日向インターを降りてものの30分とかからない。所在する行政地区は日向市であるが、日向市は昭和26年(1951)の町村合併によって成立した。
「日向市」の名称が、「大宝律令」(702年)以来の「日向国」に由来するものであることは言うまでもない。八世紀初頭に成立したこの律令は、もとは「近江令」ということになるから、この国の中央集権国家としての確立に関わっている。国家を構成する「国郡」の制定こそ中央集権国家の要であったと言うことができるのであって、この時に制定された「国郡」の名称が、この国の「国家」の形態としての始発であった。そういう意味では、現在の「宮崎県」に相当する地域は、本来は「日向」という名称であったと言うべきであろう。言うまでもないことだが、「宮崎」という県名は、明治維新政府によって命名されたものである。
昭和26年に、この名称を持つ日向市が宮崎県に誕生し、そこに「大御神社」が存在している。そういう意味では、この地に日向市が誕生したことで、「日向の大御神社」と、明治以降の歳月を経て、堂々と言えるようになった、と言えなくもない。
我々が大御神社に到着した時、幸いにも雨が止んでいた。曇り空ではあったが、境内は直接日向灘に面しており、その雰囲気はきわめて明るいものがある。
大御神社の「御由緒並びに沿革」には、次のような解説がある。
大御神社は、皇祖天照大御神を御祭神とする古社で、創建の年月は詳らかではないが、 当社に伝わる「神明記」その他の古文書によれば、往古・皇大御神・日向の国高千穂に 皇孫瓊々杵尊を天降し給うた節、尊は当地を御通過遊ばされ、千畳敷の磐石にて、 これより絶景の大海原を眺望され、皇祖天照大御神を奉祀して平安を祈念されたと伝えられ、(以下略)
ここで述べられているように、大御神社は、いわゆる「天孫降臨」の故事に由来している。天孫、瓊々杵尊(ににぎのみこと)が、降臨の途中、日向海岸の当地を通過したというのであるが、理屈から言えば、「天」からの「降臨」において、この海岸を通過するというのは不自然なことなのであるが、前にも述べたとおり、現実的には、彼らは、列島に渡来して「高千穂」を目指す途中、この地を通過した、ということなのである。つまり、彼らは、実際には、海上ルートから「五ヶ瀬川」に入ったのであり、その前に、この地において「天照大御神」を祭祀したというのであった。
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祭祀の対象は、原初的には、むろん「太陽」であった。しかも、それは、東方海上(日向灘)から直接差し昇る「太陽」の威容であり、それは、故国を棄てざるを得なかった彼らが、ついに求め続けたであろう平和と安穏の象徴ではなかったかと思われる。
その昔、この列島に稲作農耕の土地を求めて高千穂入りした人々は、あくまでも海上からこの列島に入ったのであった。さらに言えば、延岡の五ヶ瀬川に入る前に当地を通過したというのであるから、彼らは、北部九州から西九州沿岸を経て鹿児島まで南下、この日向灘の海岸に到着したものと思われる。そこで彼らが遭遇したものこそ、海上から昇る神々しいまでの太陽の威容ではなかったか。
彼らにとって、東方の海上から差し昇る太陽こそ、その記憶に刻印しなければならない風景であったに違いない。大和朝廷が、皇祖神として「太陽」を崇め、永くその記憶を刻もうとした営為こそが、近畿圏の太陽信仰の土地である「伊勢」を選んだ理由ではなかったかと思われる。「大和」から最も近いところで、東方海上から直接太陽が差し昇る国は、まさに「伊勢」を措いて他にはなかったからである。
この高千穂入りした集団が核となって、やがて「大和朝廷」が形成され、さらに中央集権国家へと発展した(「大化改新」後から八世紀初頭にかけてのことである)。その時、この国の対外的表記が「日本」(太陽が昇るところ)となったのは、まさに「日向」での原点の記憶の覚醒であった。この「日本」という表記が、中国大陸の各地で、「ニチポン」や「ジツポン」などと発音され、それがやがて、今日の「ニッポン」や英語の「ジャパン」などの表音となっていったのは言うまでもない。
この国と「太陽」との関係について、あるいは、この国の起こりについて、「日向の国」は、我々にさまざまなヒントを残してくれているように思われてならない。
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2019.12.29 河地修
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