講義余話
古代日本中央集権国家のこと(2)-「難波宮」と「大津宮」-
この国の最初の「国家造り」は、天皇家と中臣家の若者が、河内から大和を地盤とする強大な豪族=蘇我氏を倒すところから始まった。当時のこの国には、まだ独自の「年号」もなく「天皇」という呼称も、なかった。
その「国家造り」の始まりとは、すなわち、645年6月に起こった「乙巳(いっし)の変」、世に言う「大化改新」である。
この時、事実としては、大和朝廷内の最大の勢力を倒したということであったから、政治情勢としては、極度の緊張が走ったに違いない。蘇我氏を支持する勢力からの報復行動ということも十分に想定できたのではなかったか。
当時の天皇家は、その後の行動からみても、"親百済"であったことは明白であり、「乙巳の変」後に即位した孝徳天皇が、その歳の暮れに、皇太子の中大兄皇子らと「難波」に向かったのは、大和朝廷内での逆クーデターを怖れたと同時に、新政権と百済との強固な関係を示そうとする一種の示威行動であったのかもしれない。
ともかく、彼らは、難波に「宮」を遷した。今日、大阪城が建つ付近で、当時、その辺りは「難波津」であったから、いわば、政府が港に移転したようなものであった。
船に乗ってすぐに出航できる、ということだったのではないか―。この政権は、やはり、朝鮮半島―百済の方角に向っていたと、思わざるを得ない。
難波宮跡
すぐ後方に大阪城がある。また、大阪府庁、大阪府警本部もあり、今日でも政治の中心をなす地域である。
当時の朝鮮半島は、百済・新羅・高句麗の、いわゆる「朝鮮三国」が覇権を求めて争う党争の時代であった。そこに超大国の「唐」が絡んだ。
最初に百済が滅んだ(660)。その次が高句麗であった(668)。いずれも唐が新羅と結び、その巨大な軍事力で圧倒した。この頃の唐の拡大主義は病的なほどであったろう。第三代皇帝、高宗とその皇后、則天武后の、その持って生まれた「癖」とでも言うべきものから、多くの民が死んだ。
しかし、滅ぼされた「百済」は、日本(倭国)に救援を求め、その再建をめざした。当時の倭国政府(大和朝廷)は、百済からの救援要請に応え、661年、大船団を編成して出兵した。「国家」となって初めての「戦争」であったにちがいない。
この船団は、外洋に出るまで、四国伊予の「熟田津」に、2ヶ月余り滞在していることが知られている。兵の徴発にあたっていたというが、いよいよその出港に際して、額田王(ぬかたのおおきみ)が詠んだ歌が『万葉集』に載せられている。
熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな―『万葉集』「巻一」・八・額田王―
潮も満ちた、さあ漕ぎ出そう、というのである。いよいよ出航、という時の「銅鑼(どら)の音」に代わるような雄々しい力強さを読みとることができるであろう。この歌を高らかに朗詠することによって、船団の出航の合図としたのではないか。つまりは、この時の額田王とは、いわば「従軍歌人」としての存在だったのではないかと思われる。「銅鑼」の音ではなく「うた」の朗詠をもって合図とした、というところに「言霊(ことだま)」の国らしさを感じることができるであろう。
この時、斉明天皇(孝徳天皇の姉、孝徳天皇没後に重祚)は、皇太子中大兄皇子を従えて西下している。天皇、皇太子が共に行軍しているわけで、当時の大和朝廷が、いかにこの戦争(百済救援)を重く見ていたかがわかるであろう。この辺りの歴史的機微を思うならば、倭国にとって、百済とは、単なる友好国とは言えない、特別な国であったと断定せざるを得ないであろう。
しかし、斉明天皇は、九州筑紫の地で崩御した。結局、後継の中大兄皇子の指揮で戦ったが、完敗であった。後に言う「白村江の敗戦」(663)である。
この白村江の大敗後、倭国政府(大和朝廷)は、その敗戦処理に奔走したかに見える。
たとえば、その翌年、太宰府付近に防塁「水城(みずき)」・「大野城」を築いたのは、博多湾に上陸する唐・新羅連合軍の進入を防ぐことを想定したものであろう。
また、『万葉集』の「東歌」に見られる「防人」とは、もともと「崎守(さきもり)」であり、これまた白村江の敗戦の翌年、壱岐、対馬、筑紫に配備されたのが最初であった。そして、さらにこのルートには、後に「狼煙(のろし)」とも呼ばれる「烽(ほう)」も同時に設置された。有事の際には、大和まで緊急の伝令が届けられることになっていたのである。
つまりは、当時、大和朝廷は、心底、唐・新羅連合軍の来襲に脅えたものと考えられる。
そして、ついには、琵琶湖畔、大津に遷った。667年のことであった。
『国史大辞典』(吉川弘文館)は、「近江大津宮」について、「白村江の敗戦と百済滅亡後の唐・新羅に対する防衛を主とする国内整備を図るために選ばれた都」との認識を示している。
つまりは、唐・新羅連合軍の来襲に備えた遷都、ということになるのであろう。敗戦後の北九州地域での相次ぐ防衛策をみれば、このことは動かないであろうが、ただ、白村江の敗戦後、665年に唐使(劉徳高)が来朝している。この来朝が両国間における何らかの終戦処理であったことは容易に想像できるところであって、あるいは、大津への遷都は、倭国政府の、ある意味、謹慎の姿勢の表れではなかったかと思われもするが、憶測でしかない。
大津宮跡
琵琶湖畔の西南、錦織地区に点在する。地勢的には、緩やかに南に傾斜している。今は、子供たちの格好の遊び場となつている。
ただ、「大津」はよかった。中央集権国家を確立するに、この地はまことに優れた土地であった。その第一が、「琵琶湖」であった。新政府にとって、東国への往還のターミナルを押さえることによって、東国経営の「利」をすべて押さえることができたのである。加えて、軍事力の確保があった。「防人」にも代表されるように、東国の兵は勇猛という点では優秀であった。そして、なによりも、既存豪族を、そのもともとの地盤から引き剥がすことになった。
加えて、この新政府には、滅亡した「百済」の遺臣たちが多く参加した。近江、「大津宮」における国家造りには、こうした渡来人たちの存在も欠かすことができないのである。