講義余話
藤原種継暗殺事件と日本文学文化
封印された『万葉集』
長岡遷都の翌年に当たる、延暦4年(785)9月22日の夜陰、桓武天皇の信任厚い「造長岡宮使」藤原種継が矢を射掛けられ、種継は、その翌日に死去した。
長岡京建設の総責任者とも言うべき種継の暗殺は、むろん、桓武を激怒させた。桓武の陣頭指揮の元、犯人はただちに検挙され、その中に、大伴継人、良人らがいた。すなわち、大伴氏の若者らによる暗殺事件であった。尋問の結果、事件の首謀者は、およそ一ヶ月前に多賀城で死去していた大伴氏の最長老、大伴家持ということになったのである。
家持の連座は、その生前に遡っての名誉の剥奪という結果になった。この時点において、家持が最終的に編纂に関わったと推定される『萬葉集』は、確実に封印されたであろう―つまりは朝廷に没収された。家持には悪いが、このことが、結果的に『萬葉集』を確実に後世へ遺すことに繋がった。
後、その封印が解かれたのは、家持の名誉が回復された大同元年(806)3月のことであったであろう。桓武の死、そして、平城天皇即位の年であった。『古今集』の「仮名序」と「真名序」とが、『万葉集』の成立について、それを明確に平城天皇の「御時」とするのは、このあたりの事情が絡んでいるものと思われる。
長岡京大極殿址(京都府向日市)。今は小公園となっているが、訪れる人は少ない。
早良親王廃太子
この事件勃発の背景には、桓武による長岡遷都への、大和朝廷内既存勢力による明確な拒否の姿勢があったことは否めない。桓武の威を借り専横を振るう―少なくとも、そう見えたに違いない―種継個人や藤原氏への反発の感情がなかったとは言えないだろうが、大和朝廷内の伝統氏族にとっては、もともと「大和を棄てる」というこの度の遷都には、付いていけなかったのではないかと思われる。
つまりは、本来、桓武に向かうべき氏族の反発が、その腹心の種継へと向かっただけのことであったろう。
しかし、この種継の暗殺は、意外な方向へと展開した。すなわち、首謀者とされた大伴家持の処断だけにとどまらず、時の皇太子(皇太弟)早良親王(さわらしんのう)の廃太子にまで及んだのである。
大伴家持は、春宮大夫を歴任していて、皇太弟早良親王とは近い人物ではあった。しかし、種継を殺したところで、次の天皇である早良親王には何も得ることなどはなかったのではないか。仮に、早良にわずかながらでも反種継的要素があったとすれば、それは、東大寺と関係が深い親王であっただけに(理由はわからないが、早良は若くして出家し、東大寺にも住していた)、遷都反対派勢力―奈良仏教―の精神的拠り所としての働きは、あるいは果たしていたかも知れない。そういう意味では、桓武の疑心がたやすく向きやすい存在であったことは否定できない。
逮捕され、長岡京内乙訓寺(おとくにでら)に幽閉された早良親王は、兄に無実を訴えて絶食に及び、その10日後、淡路への移送中に絶命した。このあたりのひたむきな早良の行動から見ても、この事件の首謀者に早良を据えることは難しいように思われる。
乙訓寺(京都府長岡京市)。
早良親王は桓武天皇の同母弟である。古代天皇の皇位継承の優先順位については、明確な規定があったわけではないが、平安朝の初期、もしくは前期までは、「親子」よりも「兄弟」の関係が優先されたと考えられる事例が多い。
たとえば、672年の「壬申の乱」は、本来の皇位継承者であった皇太弟大海人皇子よりも嫡子の大友皇子を優先させようとした天智の、その父親としての私情に端を発したもの、と言えなくもない。天智崩御の直後、わずかな手勢しかなかった大海人皇子が、吉野を出発し大津に向かう途中の数日の間に、政府軍に伍するほどの軍勢を集め得たのも、天智の皇太弟であった大海人皇子こそが、本来の皇位継承者としての正統性を有するという大和朝廷内の暗黙の共通認識があったと考えられる。
ともあれ、一人の人間としては、他の誰よりも、我が子に事後を託したいと願うのは、しごくまっとうな情理でもあろう。大化改新の英雄として強力な中央集権国家造りに邁進した天智も、そうした人の子ではあった。桓武も、また、同様の晩年を迎えたということではなかったか。
種継暗殺の首謀者として早良親王の廃太子に至ったのは、「大伴氏の若者たち―家持―早良親王」と続くドミノ連鎖に拠った桓武の峻烈果敢な謀略とするのがすでに定説である。事実、早良親王廃太子の直後、桓武は、自身の長男である安殿親王を皇太子に擁立した。後の平城天皇である。
早良親王の怨霊
しかし、謀略はまた、人の心を蝕みもする。後に桓武は、苛烈な早良親王の怨霊に苦しんだ。この苦しみもまた、桓武という人が、一人の人間でもあったことの証でもあった。
近親の者の相次ぐ死や天変地異、悪疫蔓延の原因が、早良親王の祟りであるとの卜占が出た(792年)ことを受けて、桓武は、その怒り(祟り)を鎮めるために、諸施策を実行した。
延暦19年(800)7月、桓武は、早良親王に対して「祟道天皇」の尊号を追号するとともに、奈良市郊外の八嶋に陵墓を築いて、その慰霊に努めた。今日「八嶋陵」として宮内庁の管理するところのものがそれである。また、桓武は、延暦24年(805)、早良親王の遺骸が葬られた淡路島の山中の寺「常隆寺」に勅使を派遣、そこを勅願寺ともしている。
この国の歴史上、最も強力な指導力を発揮したと言っていい英雄型の天皇、桓武も、早良の怨霊には、かくも脅えるしかなかった。
崇道天皇八嶋陵(奈良市八嶋町)。
常隆寺山門(兵庫県淡路市)。近くには早良親王の墓と伝えられるものもある。
御霊信仰
この早良親王のケースは、天皇になるべき人物が非業の死を遂げ、無念にも廃太子となったというケースであったが、この場合、その無念の思いは怨霊となり、凄まじいまでの祟りとなって、天皇とその親族のみならず、その時代に生きる人々を天変地異や悪疫で苦しめるに至った、というものである。
なかでも、早良親王の廃太子によって皇太子となり、後に皇位を継承した平城天皇は、誰よりもその祟りを懼れたのではないか。
平城は、桓武崩御の当日、家持等、桓武時代に処刑された人々の復位に努めたが、そういう意味では、鋭敏過ぎるほどの感性の持ち主であったろう。早良については、即位するとすぐに、今日の奈良市西紀寺町の地に「祟道天皇社」を建立した。その場所は、先の「祟道天皇八嶋陵」に程近いところであった。
平城のあまりにも短い在位期間(803~809)は、その生来の病弱な心身にも起因するものがあろうが、自身の皇位継承の影で、非業の死に倒れるに至った叔父早良の存在が常に重石となって、その鋭敏すぎる精神を苦しめた結果でもあったのだろう。
こうした早良親王の怨霊にまつわる話は、後、平安京に生きる人々に鮮烈な印象と記憶を伴って、語り継がれたであろう。貞観5年(863)5月20日、神泉苑にて執り行われた「御霊会」は、この後の京における「御霊信仰」の初期のものと思われるが、この時の代表的な「御霊」こそ、「早良親王」であった。
そして、京都市左京区上高野を流れる高野川の北岸に位置する、今日宮内庁が管理するところの「崇道神社」は、その社伝に寄れば貞観年間(859~877)の創建である。都からは「艮(うしとら)」=北東の方角に当たり、叡山とともに、そこが都の鬼門としての注意が払われていることは明白である。
早良親王の強力な「怨霊」は、一方で強力な「御霊」へと変貌することで、その絶対的力をもって、都の平安のための鎮護の役割を担ったのである。
話は飛ぶが、11世紀初頭に成立した『源氏物語』に登場する六条御息所の「物の怪(生霊・死霊)」の話は、六条御息所の夫が「先坊」であったこと、すなわち、「皇太子」でありながら「皇位」を継承することなく生涯を閉じた、ということが微妙に影を落としているように思える。皇太子である夫の無念は、そのまま皇太子妃の無念でもあったろう。
そういう光と影の暗転構造に、怨霊というものはふさわしい。
崇道神社境内(京都市左京区)。観光コースからは外れているため、訪れる人は少ない。