河地修ホームページ Kawaji Osamu
https://www.o-kawaji.info/

王朝文学文化研究会 


文学文化舎


講義余話

近江朝と渡来人、そして『懐風藻』のこと

 

渡来人のルート

近江朝の特色の一つとして、強く指摘できることは、朝鮮半島からの渡来人たちの支援があったということである。渡来人たちの主要拠点は、琵琶湖の西岸、すなわち「湖西(こせい)」であった。

 

古代中央集権国家づくりが、当時の中国、そして朝鮮の諸制度を範としていることは言うまでもないが、その具体的影響関係の諸相は、一部を除けば不明としか言いようがない。遣唐使だけでそれらが受容できたとは考えにくく、やはり、多様な、そして日常的な大陸文化の流入があったに相違ない。

 

そういった日常の文化文明の流入は、列島の渡来人たちが個々に持つ、彼らと祖国との独自のルートからではなかったかと思われる。その全容を明らかにすることはできないが、おそらく、東日本を含めて、そういうルートは無数にあったのではないか―。たとえば、列島各地に展開する渡来人たちの痕跡としての遺跡群は、そういった無数のルートの一方の基点であったことの証でもあろう。

 

中央集権国家の確立期に至るまでは、少なくとも朝鮮半島との交流については、国と国との繋がりというよりも、家と家との繋がり、すなわち、氏族間における交流の方がはるかに濃密であったと思われる。そうした交流の担い手こそ、渡来人たちとその故国の人々であったろう。

そして、強力な中央集権国家の成立は、やがてそのような個々の交流―今風に言えば民間レベルでの交流を一本に束ねていったものと思われるが、7世紀後半当時は、まだそうした個々のルートが残っていたと考えていいだろう。

 

645年、蘇我氏宗家を倒した天皇家は、当時、間違いなく百済との太いパイプがあった。そのパイプがどのような色合いでどのような性質のものであったかはよくわからないが、国家となって初めての戦争が、百済再興のための出兵(白村江)であったから、両者の間には、余程の濃密な関係があった、と見るべきであろう。

 

ただ、当時(7世紀)の倭と百済とが強い同盟関係にあったからといって、それではそのライバル国の白羅・高句麗と全面的に敵対関係であったかというと、必ずしもそうでもなかったのではないか。

 

古代朝鮮三国時代(高句麗・白羅・百済)は、三国がそれぞれに覇権を求めて争う時代(そこに中華・中原の国々が絡んだ)ではあったが、それと同時に、同じ国内に於いても、激しい党争が繰り返される時代でもあった。そして、闘いには、必然的に勝者と敗者とが伴うものであり、党争の度ごとに、敗者の側は亡命せざるを得なかったであろう。その亡命先の一つが「倭」でもあった。

 

百済も新羅も、そして北方の高句麗においても、党争からそこを追われた人々の中には、海を渡るしかない人々もいたであろう。

 

遥か古代から「湖西」を拠点とする渡来人たちが、主に朝鮮半島のどの地域からやってきた人々だったのかはよくわからない。しかし、百済滅亡(663)に伴って、多くの百済人が亡命しており、湖西がその有力な受け入れ先だったことを思えば、もともと百済からの渡来人が多かった地域ではあったろう。

 

そもそも、朝鮮半島と日本列島との地理的関係から言えば、海を渡ってくる渡来人は、百済人が圧倒的に多かったのではないかと思われる。朝鮮半島南部の彼らは、そこに住めなくなれば、水滴が自然にしたたり落ちるように、まず対馬・壱岐を伝って、九州北部や西日本の日本海側へと流れ着いたに違いない。

漂着した渡来人たちは、やがて、永住の地を目指して九州各地や中国地方、さらに言えば、東へと移動することも多かったのではないか。なぜなら、九州各地や西日本はすでに居住者も多く、彼らが住むに適当な場所が、新たに確保されにくかったことが考えられるからである。

彼らの多くは、ついには、東日本を含む列島各地に移り住んだものと思われる。

 

そのうちの一つが、琵琶湖の西岸「湖西」であった。

 

湖西は、今も寂しい。湖東に比べると、古代から近世にかけても、人と物の流れが、ほとんどなかった。近現代以降も、開発に取り残された(旧国鉄の湖西線の開通は昭和49年(1974)のことであった)。しかし、その開発の遅れが、皮肉なことに、当該遺跡群を後世に遺すことにつながった。つまり、破壊されずに済んだ。

現在、古墳を中心とする多くの遺跡群がそうであり、それらはあきらかに朝鮮半島との繋がりを示している(百済だけではない)。

大津宮錦織遺跡 錦織

大津宮錦織(にしこおり)遺跡は、大津宮の中心部であったと推定されている。 上は「錦織」は渡来人の拠点であったと解説するプレート。

 

ところで、663年の白村江の大敗は、「大化改新」という「革命」を成し遂げた若い新政権が、いわば、外交で大きく躓いたというものでもあった。

いつの時代でもそうだが、外交の大きな躓きは、取りも直さず、政権にとっては、致命的な危機となる。つまり、この場合、この国における天皇を中心とする初めての国家体制が、それこそ瓦解しかねないという危機であった。

 

そういう意味で、中大兄皇子(天智天皇)の大津宮遷都は正しい選択であったろう。事実、その後の政権は安定した。東国侵攻による領土の拡大は、取りも直さず、税収の拡大であり、財政を安定させることになった。また、朝廷そのものを大津宮に遷すことによる中央集権体制の確立は、強力な天皇の権力基盤の構築であった。

そして、白村江の大敗の結果は、国際社会において相応の責任を果たす国家の誕生に繋がり、その外交的安定は保証されたに違いない。―恐らく、白村江の大敗により倭国は朝鮮半島には二度と出兵しないという姿勢を取ったかと思われる(白村江敗北後、相次いで遣唐使が派遣された(665、667、669年)のも戦後処理のためであろう)。そういう意味では、太平洋戦争敗戦後の日米関係と酷似している。

 

近江朝の安定と『懐風藻』

ともかく、近江朝は、安定した。それは、経済の安定と国際社会の平和に支えられたものであった。そして、社会の安定と平和は、間違いなく、文化のゆたかさに結実する。そのゆたかな文化の創造に、湖西の渡来人たちが貢献した。この場合の「ゆたかな文化」の創造とは、すなわち、この国における、「文学」の初の誕生を指している。

 

そのあたりの事情を、天平勝宝3年(751)に成立した漢詩集の『懐風藻』は、確かな記録として、後世に遺した。

『懐風藻』は、我が国初の「詩集」、もしくは「詩文集」である。国家とは無縁の次元で成立したが、『古事記』と同様、堂々たる「序」を有している。それには、この作品の制作意図が明確に述べられてもいるが、なかでも「文学」の発祥と確立を、天智天皇の優れた治世の結果に拠るものとしている点が注目される。

 

たとえば、「序」の中の以下のくだりは、天智天皇に関わる記述である。

及至淡海先帝之受命也、恢開帝業、弘闡皇猷
(淡海ノ先帝(天智天皇)ノ、命ヲ受ケタマフニ及至(およ)ブヤ、帝業ヲ恢開シ、皇猷(こうゆう)ヲ弘闡(こうせん)ス)

「命」―天命を受けて即位した天智天皇が、「帝業」、すなわち、天皇を核とする国家事業(中央集権国家政治)を初めて開始したと述べているわけで、まさに近江朝を、この列島における国家体制の本格的な幕開けと位置づけている。

また、それに続く以下のくだりは、「文学」についての我が国初の明確な意味付けと言っていい。

調風化俗、莫尚於文、潤徳光身、孰先於學
(風ヲ調(ととの)ヘ俗ヲ化(すす)ムルハ文ヨリ尚(たふと)キコトハ莫(な)ク、 徳ヲ潤(ぬ)ラシ身ヲ光(て)ラスコトハ、孰レカ學ヨリ先ナラム)

「文」と「學」―「詩文」や「学問」が、「風俗」(社会ということであろう)に秩序を与え、人間(人格)の形成にいかに大きな力を発揮するものであるかを強く主張する。「文学」が社会や人間の在り方に必要不可欠である以上、これらを教授する「学校」が開かれたのは当然のことであった。「序」は次のように続けている。

爰則建庠序、徴茂才、定五禮、興百度
(爰ニ庠序(しょうじょ)ヲ建テ、茂才ヲ徴シ、五禮ヲ定メ、百度ヲ興ス)

「庠序」とは学校であり、「茂才」(秀才)を集めて「五禮」(礼式)や「百度」(法度=法令)を定めたとあるので、まさに、"国家"としての体制作りに着手したものと思われる。そして、近江朝は安定し、天智天皇の日常については、「旈纊無為、巖廊多暇」であった。つまり、天下はおのずと治まり、余裕ある政務の中から、豊潤な文化が華開いたのである。

旋招文學之士、時開置醴之遊、當此之際、宸翰垂文、賢臣献頌、雕章麗筆、非唯百編
(旋(しばしば)文学ノ士ヲ招キ、時ニ置醴ノ遊ヲ開ク、此ノ際ニ當リテ、宸翰文ヲ垂ラシ、賢臣頌ヲ献ズ、雕章(ていしよう)麗筆、唯百編ノミニ非ズ)

その文化の最たるものが「文学(詩文)」であった。「旋(しばしば」「文學之士」を朝廷に招いたとあるが、その「文學之士」こそ、古くから湖西に住む渡来人、もしくはその流れを汲む人々であったに違いない。

 

言うまでもないことだが、漢詩の制作にあたっては、中国の言葉や唐詩の技法に明るくなくてはならない。それと同時に、「訓読」する力が必要であった。つまり、翻訳力が求められた。つまり、中国の言葉と和語(列島の言葉)との両方に詳しい人々(渡来人系)でなければ、その任は果たせなかったであろう。このことは、渡来人の子孫たちにとっては、それこそ長い間待ちのぞんだ一大好機の到来であったと思われる。彼らは、政権内部にも、多く重用されたのではなかったか。

 

近江朝の漢詩サロンでは、天皇自らも詩文を作り、臣下もまた天皇を賛美する詩文を献上したという。まさに"君臣相和す"の風景であった。そこで作られた詩篇は「百編」を超えたというから、そういう意味では、9世紀前半に展開した"唐風謳歌時代"に先立つ"第一次唐風謳歌の時代"とでも言うべきものであったろう。

 

しかし、その時代はあっけなく潰えた。「序」は次のように言っている。

但時經亂離、悉從煨燼、言念湮滅、軫悼傷懐
(但シ時ニ亂離ヲ經、悉ク煨燼(わいじん)ニ從フ、言ノ湮滅(いんめつ)ヲ念ヒ、
軫悼(しんとう)シテ懐(こころ)ヲ傷(いた)メリ)

「時經亂離」とは、むろん"壬申の乱"(672年)を指している。この乱により近江朝は灰燼に帰した。しかし、この後、朝廷は再び「大和」に還ることになったのであるから、この乱の持つ史的意味は重い。

当然のことながら、"日本文学文化"の世界にも、この乱は大きな影響を与えている。

大津市歴史博物館前

大津市歴史博物館前から琵琶湖方面を望む。この地点から左方が大津宮であったと推定される。