講義余話
京文化の地方移植のこと―瑠璃光寺五重塔、もしくは大内文化断章―
長州の文化財で、自慢できるものを何か一つだけ挙げろと言われたら、私は、躊躇なく、瑠璃光寺五重塔を挙げるだろう。
この五重塔の、古色のなかにも優しくすっくと天に向かって立つ風姿は、とにかくどこまでも「奥ゆかしさ」という言葉がふさわしく、かつ繊細で優美な表情にあふれている。凛とした気品高さ、と言ってもいい。まさに、"山口"を代表する文化財である。
瑠璃光寺五重塔は、室町時代、嘉吉2年(1442)頃の建立と伝えられている。当時、防長(周防と長門)2州は、大内氏が守護職として統治していた。五重塔は、その大内氏が生み出した、大内文化の代表的な文化遺産ということになる。
大内氏全盛期は、24代の弘世が確立した。もともと周防(すおう)1国の守護職であった弘世は、正平13年(1358) に、西隣の長門国(現在の山口県の西側半分)を攻略し、それを併合するとすぐに、現在の山口市に本拠を置いた。
弘世は、積極的に中国・朝鮮と貿易を行い、大陸文化の輸入に努めた。この貿易による富の裏付けというものがなければ、大内文化は育たなかったであろう。地理的にいっても、もともと、この地(今の山口県)は、朝鮮半島や中国本土と濃密な関係を持ちやすいところであった。だからというわけではないが、大内氏の旧姓が多々良氏であって、その祖は、瀬戸内周防の多々良浜に流れ着いた百済聖明王の王子の後裔であるとする伝承も、これをあながち眉唾として棄て去ってしまうのは惜しいような気もしないではない。
大内文化は、優しい。弘世の文化施策(文治)は、京文化の山口への移植にあったと思われる。その根底には、京(都)への限りない憧憬があった。夫人も、京の公家出身であった。都を恋しがる夫人のためというわけでもあるまいが、弘世は、山間に佇むような山口の小盆地を京に見立て、さらに驚くべきことに、町の辻々にはわざわざ京童を住まわせたという。京ことばの普及がねらいだったと言われているが、その目論みどおりに、山口言葉の質的変換とでも言うべきものが実現できたのかどうかは、わからない。
しかし、今日、都市部から離れた山間部などに伝わる古い山口言葉には、どことなく典雅な響きがないわけではない。たとえば、一時山口観光のキャンペーンにも用いられた「おいでませ、山口」の「おいでませ」などは、幕末以降の長州の過激さとは異質な感があって、どことなく公家風の趣がないわけでもない。
仮に、山口言葉が、地方言語のなかで、少しでも雅やかな響きを持っているとするならば、それは、弘世の、独特な"文化施策"のおかげだと言えるかもしれない。
弘世の京文化の移植は、基本的に、代々の大内氏に引き継がれた。この瑠璃光寺の五重塔は、おそらく、現在京都市内に残るどの五重塔(たとえば醍醐寺や東寺の五重塔)よりも、穏やかな風情を持っていると思われるが、それは、当時の京文化(室町文化)の洗練された優しさを反映しているからだろう。瑠璃光寺五重塔が建立された嘉吉2年(1442)当時は、応仁の乱(1467~1477)の勃発前であって、政情としては比較的穏やかな時代であった。社会の安定-ありていに言えば平和ということだが-は、文化を育てもするのである。
ところで、地方の空間を"京"に見立てるという着想は、大内文化が最初ではない。その嚆矢としては、平安朝末期、平泉に花開いた奥州藤原氏の文化が指摘できるだろう。藤原清衡は、北上川を鴨川に、東方の山麓を東山に見立てたと言う。そして、荒廃が進む平安朝末期の京から、仏師、建築職人、工匠、作庭師など、多くの職人を招聘した。このおかげで、我々は、今日、奥州平泉文化を透して、平安朝の貴族文化の片鱗にも触れることもできるのだ。
たとえば、中尊寺宝物館(讃衡蔵)に収蔵されている仏像を始めとする数々の文化遺産、あるいはその隣にある毛越寺の「寝殿造り」や「遣り水」の遺構など、「王朝貴族文化を知りたければ、平泉に行け」の最たる例と言っていい。そして、この平泉文化を育て支えたものが、奥州産の黄金であったことを思えば、「富」もまた、確実に文化を育むことができるということが言えるであろう。
さて、瑠璃光寺五重塔について、司馬遼太郎は、『街道をゆく』(1971年9月、朝日新聞社)のなかで、次のように書いた。
(長州は、いい塔を持っている)
と、惚れぼれするおもいであった。長州人の優しさというものは、山口に八街九陌をつくった大内弘世や、ザビエルを保護した義隆などの大内文化を知らねばわからないような気もする。
高杉晋作の「奇兵隊」は、幕末革命における優れた結晶体であり、長州の歴史のみならず、この国の歴史においても、おおいに誇りとすべき快挙なのだが、しかし、長州が「奇兵隊」だけではないということを、この瑠璃光寺五重塔は示していよう。
私は、かねがね、長州においては、奇兵隊の激しさと瑠璃光寺五重塔の優しさとのアンバランスが面白いと思っていたが、しかし、その対照の淵源は、あるいは、「長州」と「周防」との対照性に求められるのかも知れない。ほとんど日本海に面し朝鮮半島と濃密な関係を持つ「長門(長州)」と温暖な瀬戸内海側に位置する「周防」とでは、もともと風土や気質が違うのも当然のことであろう。
最近、久木綾子氏が上梓された『見残しの塔―周防国五重塔縁起』(2008年9月、新宿書房)は、この瑠璃光寺五重塔をめぐる歴史小説だが、冒頭は、次のような文章で始まっている。
人は流転し、消え失せ、跡に塔が残った。
塔の名を瑠璃光寺(るりこうじ)五重塔という。室町中期、寺は香積寺(こうしゃくじ)と号した。守護大名大内氏一族興亡の歴史を秘めた国宝の塔である。歳月が塔の朱を洗い流し、素木(しらき)に還し、古色を加えたが、美形は変わらない。
塔は、今日も中空にのびのびと五枚の翼を重ね、上昇の姿勢を保ちつづける。
この小説は、久木綾子氏が、平成2年の初夏、初めて、瑠璃光寺五重塔をご覧になってから、ほぼ20年という歳月を経て完成した。いわば、氏の、この塔への限りなき "賛歌"とでも言うべき作品だが、副題にあるとおり、塔の本籍を「周防国」と定められたところが興味深い。
瑠璃光寺五重塔の所在地は、江戸時代以降、山口が長州藩の藩庁所在地ということもあって、旧「長州」となるところだが、厳密に言えば、もともとは旧周防国の吉敷郡である。どちらでもよさそうなものではあるが、この塔は、「周防」と言うほうが、その“優しさ”という印象にはふさわしいように思われる。
大内文化の優しさとは、確かに、京(都)により近い「周防」の風土が育んだものに違いない。